孫経営の終焉、ソフトバンクの憂鬱『PRESIDENT』Part2

「三月十三日にモスクワからや言うて、孫さんから電話があったんです。三月十五日に二時から三時までの間にナスダック協会を作ると。それで、『一時から二時まで二人で話し合えないか』と。(その場で)ノーならやめようと。『イエスかノーかだ』という話なんですよ。孫さんは、『北村さんに言わないでくれ』ということでしたが、僕は北村君に話したんです」(巽氏)

当時、大証の理事長は大蔵省出身の北村恭二氏だった。しかし、国際証券業協会を通じて海外の証券業界とも人脈のある巽氏が、交渉の席に必ず同席してきた。孫社長は、理事長である北村氏を飛び越えて、「実力者」の巽氏との直接交渉で問題を打開しようと図ったのだ。

その後、帰国した孫社長から、巽氏のもとに再び電話が入る。

「北村さんに言ったんですか。言ってもらわない方が良かったですけど・・」

こう苦言を呈する孫社長を、巽氏は、たしなめた。

「いやいや、それは言わないかん。彼がサイン権者やから。彼をそこへ出してもらわんことには立場がない。皆が出た方がええ。僕も前向きに対処するがな」

すると、孫社長は最後通牒ともとれる提案で切り返した。

「では、巽さんの顔だけを見て話しをします。それで巽さんが『ノー』ならもうやめます。二時からのナスダック協会の会合もやめます」

「北浜のドン」を相手に、孫社長は一歩も引かないタフなネゴシエーターぶりを発揮していた。そして、当日の三月十五日、大証側は数々の失態を演じて、「孫ペース」で交渉が進むことになる。

孫社長側が用意した隠し球は、大阪証券取引所に「疑惑の関連会社がある」という指摘だった。そして、「このような会社にはお金は落とせない」と主張したのだ。この指摘には、巽氏自身も度肝を抜かれた。

「その会社は何やと僕が言うたら、(他の理事は)本当に知らんちゅうわけですな、聞いたことないと。あとで調べたら、関連会社十二社中、理事会にかかってるのが一社だけ。それで向こうから、『こんな会社へは落とせない。だから、固定配分でやりましょう』と言ってきたんです。うちの副理事長は、残り時間の十分前まで採算がとれるか電算機を叩いてる。僕は関連会社のことで『なんや、それは。調査せないかん』となった。ところが、二時からナスダック協会の会合が始まる時間がきている。とにかく〝手を握れ〟だったわけですわ」(巽氏)

煮え切らない北村理事長と孫社長の手を取り、巽氏が「理事会は私がまとめる」といって、交渉成立を宣言した。しかし、この交渉は大証の「敗北」という見方をせざるを得ない。孫社長の提案通り、大証の取り分は、最初は六億円で、以後、毎年一億円づつ増額していく固定配分方式を丸呑みした。そして、この契約に、「二年後に契約を更改する」という条文が含まれていたことも、大証には検討する余裕すら無かった。

NJIが「固定配分」にこだわった理由は明白だ。

当時は、日本ではソフトバンクや光通信といったネットバブルを象徴する企業の株価は下降していたが、米国のバブルはいまだ全盛期の繁栄を謳歌していた。つまり、ヒリー氏らは、ナスダック・ジャパンから巨額の収益が見込めると踏んで、三分の一の収益配分を大証に与えるより、固定配分にした方が自分たちの取り分が大きくなると踏んだのだろう。しかし、これが、大きな見込み違いであることが判明するのは、それから二年後のことである。


初出:孫経営の終焉、ソフトバンクの憂鬱『PRESIDENT』2002年12月2日号