孫経営の終焉、ソフトバンクの憂鬱『PRESIDENT』Part1

「昔から通信がやりたかった」

ナスダック・ジャパンの日本撤退が決まった直後、新聞に孫正義社長のこんな発言が掲載された。

しかし、何人の財界人や投資家が、この発言を額面通りに受け止めるだろう。孫社長ほど、中核に据える事業を転々とさせる経営者はいない。その多くが、巨大な規制の壁を打ち壊し、既存の大企業の存在を脅かした途端、スッと熱が冷めたように興味を失い、新たに次の「敵」を見出して、そこに経営資源を集中する。たぐい稀なるベンチャー精神の持ち主という見方もできる。しかし、打ち捨てられた業界は、巨大な台風に荒らされた後の都市のような、無残な惨状に喘ぐことなりかねない。

二年前、鳴り物入りで上陸した「ナスダック・ジャパン」(NJ)の撤退は、私企業の提唱で市場を作り、「儲からない」という理由だけで看板を外したことで、「株式市場を軽くあしらった」と、多くの市場参加者から非難を浴びた。大阪証券取引所の巽悟朗理事長と、孫社長の「右腕」であるソフトバンク・ファイナンスの北尾吉孝CEOの話を中心に、上陸から撤退までの内情を浮き彫りにする。

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「(ナスダックの撤退騒動が)始まってから、ずっと情報操作をやられましてね。それで、私が言っていることの反対になったり、色々してるんですよ」

開口一番、こう切り出したのは、大阪証券取引所の社長、巽悟朗氏だ。巽氏は、二五歳の時に光世証券を設立し、一代で総合証券を築き上げた。百八十センチ近い長身に堂々たる押し出しで、誰が相手であろうと、独特のダミ声で思いのままを直言する。そして、ついた渾名が「北浜のドン」。もっとも、強面の風貌とは裏腹で、新聞記者からは、「どんな取材でも相手を選ばずに誠実に応じてくれる」という評判だ。

その「ドン」が神経質になるのには理由がある。ナスダック・ジャパン撤退の過程で、いつのまにか「犯人」のような扱いを受けていたからだ。とくに、米国の『ウォールストリート・ジャーナル』は、〝一〇〇〇ドルの靴を履く男〟と「誹謗」したと、記事を書いた記者を名指しで批判するほどである。

NJは、本家の米国ナスダックと、誘致をしたソフトバンク、そして受け皿となった大阪証券取引所の合作だった。主な登場人物は、全米証券業協会前会長のフランク・ザーブ氏、ナスダック・インターナショナル会長でナスダック・ジャパン・インク(NJI)の取締役でもあったジョン・ヒリー氏の二名が米国側、日本側は、巽氏、初代NJIの社長になった日本IBM元副社長の佐伯達之氏、そしてソフトバンクの孫正義社長の三人が重要な役割を担った。

ナスダックの日本上陸は、ネットバブルの萌芽しはじめた一九九九年一月に、孫社長、北尾氏、ヒリー会長が、米国大使館で会食したことに始まる。それから半年後の六月十五日、ザーブ会長(当時)と孫社長が、新市場構想をブチ上げ、「ソフトバンクはマーケットを牛耳るのか」という批判が渦巻いた。

しかし、この時点では、どのような形で、どこの取引所と手を組むかなど、具体的な内容はまったくの白紙で、ようやく大手証券などに協力要請を始めたばかりだった。野村證券出身の証券マンである北尾社長は、こうした「強引」な孫社長の手法には批判的だった。

「僕は当初から、証券界、いわゆるプレイヤーとして参加する連中が完全に同意をしてくれるマーケットじゃないと時間の問題で難しくなると主張していたのです。孫さんのやったことは、十分なマーケット参加者の賛同を得てやったかどうかというと、ネガティブというよりほかないでしょう。というのは、その後の資本の参加状況を見てみると、皆、これ以上、お金出すの嫌だと言ったわけでしょう。証券会社が主導的な役割を担って、自然発生的に作った方が証券界にとっても投資家にとってもいいんです」

提携先取引所の候補が、東京、京都、福岡と二転三転した挙句、最終的に大阪証券取引所に決まるのは、東証「マザーズ」が取引を開始する直前の十二月二十四日だ。この日、東京・日本橋蛎殻町のロイヤルパークホテルで開かれた協議で基本合意書に調印する。しかし、両者の関係は、最初からギクシャクしたものだった。巽氏が当時を振り返る。

「ナスダックとやるという話は、賛成やった。ところが、(孫社長とナスダック側で)どういう交渉が行われているかが分からなかったわけですよ。僕らの常識では、『ナスダック・ジャパン・インク』というマーケティング会社を作ってとか、そんなことは全然考えてなかったわけです。ナスダックとの提携とは、こっちにガッチリした新興市場を作って、二十四時間取引が必要なら米ナスダックと繋ぎましょうという簡単な話だったわけです。ところが、いつの間にやら、そういうことがなくなって、孫さんとナスダックが会社を作って・・・」

この「ナスダック・ジャパン・インク」(NJI)という会社の存在、ひいては、NJIと大証との収入配分を巡る争いが、後の崩壊への火種となる。基本合意の段階では、大証が三分の一、NJIが三分の二をとるという内容だった。ところが、翌年二月に合意が反故にされる。NJIのヒリー氏が、「コストを再検討した結果、大証への収入配分を毎年二億円の固定配分方式に変えたい」と、一方的に言い出したという。

こうして、両者の関係にヒビが入ろうとしている時、交渉役として入ってきたのが孫社長だった。


初出:孫経営の終焉、ソフトバンクの憂鬱『PRESIDENT』2002年12月2日号