孫正義は一兆円をドブに捨てた『週刊文春』Part3

なぜ、孫はこのような高値で買収してしまったのか。投資銀行幹部は、「情報戦に負けた」と言う。

「孫さんは、そもそも七千五百億円と負債二千五百円の合計、一兆円ほどで買収できると考えていたでしょう。これは交渉をスタートさせる金額としては妥当です。時間をかければボーダフォンが焦り出すのは分かっていたはず。ところが、ボーダに先手を打たれて『買収交渉中』という情報をリークされた」

三月四日未明。ロイター通信が、「ソフトバンクがボーダフォン日本法人買収交渉」と報じると、孫は他の買収者の出現を焦り始めた。それを見透かしたように、英フィナンシャル・タイムズ紙が「投資ファンドのKKRとサーベラスが買収に名乗りを上げる」と報じる。

そして、最後の追い討ちをかけたのが、ロイター通信がニューヨーク発で報じた「サーベラスが全額現金で百五十億ドル(一兆八千億円)での買収提案予定」という日本時間三月十六日のニュースである。この翌日、「一兆七千五百億円」で交渉が成立し、記者会見に臨むことになった。

服部氏は、「ボーダフォンのリークによるブラフではないか」と見る。

「ファンドは転売で儲けることが目的です。百五十億ドルは、ファンドが手を出せる金額ではない。じっくり構えて交渉していれば、一兆七千五百億円も出さずに、もっと安く買えたはずだ」

ファンドによる買収説が報じられると、本来なら名前が表に出ることがないサーベラスのバンカー二人の「ルビオとサンダース」という名前が図ったように喧伝された。ある通信会社のトップが二人に電話をすると「買うつもりだ」と答えて、「サーベラスは本気だ」という既成事実が作られていった。

この二人はサーベラスに実在するプライベートエクイティ(未公開株)投資を担当するマネージングディレクターだった。もっとも、丸の内のサーベラスのオフィスで、ボーダフォンの財務資料を読んでいただけで、デューディリもせずに、たった二人でプライシングができるはずがない。外資系投資ファンドの幹部が言う。

「二人とも来日して一年ほどで、まだ日本で一兆円単位の投資判断は出来ません。ボーダフォンやUBSのブラフに付き合ってあげたんでしょう。この程度のことは、買収交渉の情報戦では許されるレベル。むしろ、騙されるほうが未熟なんです」

GS持田、ドイチェ結城の二人が、このブラフに気づかないわけがない

「孫さんには、投資銀行の忠告が耳に入らなかったのでしょう。もし投資ファンドの提案が『ブラフ』でなかったら、手が届くところにあったボーダフォンと千五百万人のユーザーが、みすみす第三者の手に渡ってしまう。NTTと闘うために総務省を訴えるほどの努力をして、もう悠長に時間を費やす気にはなれなかったのでしょう」(投資銀行幹部)

ソフトバンク・インベストメントの北尾吉孝社長は、かつて筆者にこう話したことがある。

「投資銀行は、ディールが成立しないとフィー(手数料)が入らない。しっかり見ていないと、売り手と買い手のアドバイザーが、暗黙の了解で手を結んでしまうことがある」

GSとドイチェは、ソフトバンクに的確なアドバイスをしたのだろうか。外資系のバンカーが言う。

「UBSは最高値で売って顧客であるボーダフォンの株主への忠実義務を果たした。しかしGSとドイチェが、この価格でどんなフェアネスオピニオン(買収に対する公平な意見書)を書いたのか、ソフトバンクの株主は確認する必要があるのではないか」

初出:ボーダフォン史上最大の買収劇の舞台裏 孫正義は一兆円をドブに捨てた『週刊文春』2006年5月4/11日号