孫正義は一兆円をドブに捨てた『週刊文春』Part2

この頃から、ソフトバンクや携帯電話事業に新規参入を予定しているイーアクセス、さらにドコモやauにも、外資系投資銀行のバンカーが、「俺ならモローに渡りを付けられる」などと、不確かな買収構想を持ちかけ始め、〝ゴールドマン・サックス(GS)がデューディリジェンス(資産査定)に入った〟〝リップルウッドが総務省に圧力をかけた〟といった噂話が飛び交った。

しかし、ボーダフォンの交渉窓口は一人のバンカーが握っていた。その男は、UBS証券東京支店の投資銀行本部のマネージング・ディレクター、スティーブン・トーマスという日本人の妻を持つ英国人バンカーである。

「トーマスは、日本語が堪能で、ボーダフォンの経営陣とは極めて密接な関係を築いていた。鈴鹿のF1グランプリでは、ボーダフォンがスポンサーをしているフェラーリの応援で貴賓席に陣取っていたほど。UBSは、Jフォンの買収、日本テレコムの売却でもボーダフォンのアドバイザーをしている。ボーダの売却が、〝UBSのトーマス〟のディールになるのは既定路線だった」(外資系投資銀行の幹部)

一方のソフトバンク側には、ゴールドマン・サックスがアドバイザーに就くことが確実視されていた。GS日本法人の社長で、投資銀行部門のヘッドでもある持田昌典は、日債銀の買収、ダイエーホークス買収などを手掛けている。さらに持田は、孫の長女を部下のアナリストとして雇っているほどだ。

「売却説」が、真実味を帯びてくるのは今年一月に入ってからだ。この頃、ロンドンでは英ボーダフォンのアルン・サリーンと孫が会合を重ねていた。

そして、水面下の投資銀行のアドバイザー争い中に、ドイツ銀行グループのドイツ証券が割って入った。日本では二番手か三番手の地位に過ぎないドイツ証券が、なぜソフトバンクのアドバイザーに就任できたのか。外資系投資銀行の幹部はこう解説する。

「ドイツ証券は一昨年、モルガン・スタンレーから結城公平さんを投資銀行本部長として迎えた。結城さんは三菱銀行出身で、モルスタ時代から三菱絡みの巨額ディールを手掛けて、銀行からの信頼が厚い。ところがGSは、三井住友とは親しいですが、三菱東京やみずほとは、良好な関係ではない。GSを突出させると買収資金の融資に支障を来たす可能性があったのだろう」

孫陣営は、メインバンクのみずほ銀行も加わり、GS持田、ドイチェ結城の日本人トップバンカー二人とともに、オールジャパンの「最強の布陣」が、UBSとの交渉に挑むことになった。

「英ボーダフォンは、日本を筆頭に海外投資の失敗が目立ち始め、株主から『売却しろ』という圧力がかかっていた。M&Aでは、最初にデッドラインを迎えるほうが負ける。英ボーダフォンは、秋の番号ポータビリティ(同じ電話番号のまま携帯電話会社を変更できる制度)のスタート前に、さっさと売却したいのが本音です。ソフトバンクは有利な交渉だったはずですが・・・・」(外資系投資銀行幹部)

ところが、最終的な買収金額の「一兆七千五百億円」という数字は、他の携帯電話キャリアの社長をして、「モローは、日本テレコムに続いて、ボーダフォンまで高値で売り抜けた」と、驚嘆せしめることになる。

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「ボーダフォンが、今のまま(の地位に甘んじてる)とは思っていせんでしたが、孫さんがボーダフォンを買うとはね。勝算があるから買われたんでしょうが、(ドコモの社内でも)あそこまでのお金を出すとは思ってなかった」

NTTドコモの中村維夫社長も驚きを隠さない。またイー・アクセスの千本倖生会長もこう言う。

「孫さんのボーダフォン買収は、八割は想定内だったが、プライスを見て驚きました。かなり高いバリュエーションを払って、リスクをとった買収だ。あれだけの金額を出すのは立派ですが、私には出来ないことです」

ライバル企業のトップからも、こうした心配の声があがるほど「一兆七千五百億円」という価格は高額なのか。ゴールドマン・サックスのパートナー(共同経営者)として、KDDIの合併など数多くのM&A を手掛けた元バンカー、一橋大学大学院国際企業戦略研究科の服部暢達助教授も、「高い」と分析する。

買収資金は一兆七千五百億円だが、約二千五百億円のボーダフォンの負債を受け継ぐので、実質的には「二兆円買収」となる。資金繰りの内訳は、ヤフーとソフトバンクが合計三千二百億円を出し、英ボーダフォンが優先株などで四千億円を貸し、さらに、LBO(レバレッジド・バイアウト=買収先企業の資産を担保に資金調達する買収)で、一兆二千八百億円の銀行融資を受ける。

「英ボーダフォンからの四千億円の借り入れを含めると、ソフトバンクに買収された『新ボーダフォン』のデット(負債)は、総額で一兆七千億円になる。ボーダフォンの経常利益は八百億円で、負債の一兆七千億円を金利三%で調達するなら、年間五百億円の利払いが発生する。経常利益が利払いの一・六倍という数字は、限界までレバレッジを効かせれば、LBOではギリギリありえる戦略です」(服部氏)

金利の支払いで純利益が全て消える計算だが、低金利の魔法によって、紙一重の資金調達が成功した格好である。

「ところが、経常利益から利払いと税金を引くと純利益は約百八十億円になる。その会社をソフトバンクとヤフーは三千二百億円で買ったわけですから、PER(株価収益率)十七~十八倍で買ったことになります。この数字は、ドコモやKDDI、沖縄セルラーなどの上場している同業者が十二~十三倍であることと比較すると、レバレッジをかけても割高ということになる」(服部氏)

そして、服部助教授が算出する〝適正価格〟は、ボーダフォンの負債二千五百億円を含めて「一兆二千億円」だという。多くの通信会社トップたちが、「倍の価格で買った」「一兆円をドブに捨てた」というのは、専門的な見地からも決して大袈裟ではないことが分かる。


初出:ボーダフォン史上最大の買収劇の舞台裏 孫正義は一兆円をドブに捨てた『週刊文春』2006年5月4/11日号