孫正義 色褪せた錬金術師『文藝春秋』Part5

昨年夏からスタートした「ヤフーBB」のADSL(非対称デジタル加入者線)を用いたブロードバンドサービスは、孫社長にとって「最後の賭け」になるだろう。これまでのソフトバンクのビジネスは、商品や会社を右から左に流すだけで、華はあっても実がない〝虚業〟に近いものだった。巨額の有利子負債を抱えたソフトバンクには何よりも「現金」が必要である。失敗すれば「身売り」という選択肢すら現実的になってくる。

孫社長は、スピードネットの過ちを繰り返さないため、ヤフーBBの立ち上げでは周到な用意をした。それは、経営危機に陥った「東京めたりっく通信」の買収劇の舞台裏をみるとよく分かる。東めた社は、日本ではじめてADSL事業をスタートさせたブロードバンドの先駆者で、技術者集団が作り上げたベンチャー企業である。東めた社の元社長、東條巌氏が当時を振り返る。

「孫ちゃんが買収に関心を持ったのは、東めた社の経営危機が新聞で報道された後です。我々も時間的なリミットに迫られ、総額十一億円という非常に安い値段で売却する結果になったのです。私は売却の時に、『東めた社のユーザーは最初にブロードバンドに入った宝物だから、彼らを失望させないで欲しい』『社員をクビにしないで欲しい』と二つのお願いをしました。孫ちゃんは『大事にしていきます』と言いましたが、同時に『自分のために買ったんです』とも付け加えました。今考えると、『会社を部品として解体していく』ということの含みだったんでしょう。まさか、あの直後にヤフーBBを立ち上げるとは夢にも思いませんでした・・・」

孫社長には、東めた社を救済・支援するという思考は最初から無かったようだ。東めた社の社員は、次々とヤフーBBを運営する「ビー・ビー・テクノロジー」に転籍させらた。東條元社長は、「人員の補充も投資もされてない。東めた社は、自然消滅を待つ状態なんでしょう」と言う。

しかし、この程度は序の口である。ヤフーBBを立ち上げた後、孫社長は、海外出張やゴルフもやめ、地方のNTT局にも自らが足を運んだ。ADSLサービスを開始するにはNTTの局内に機器を設置して簡単な工事をする必要がある。ところがNTTグループ自身も、ADSLサービスを提供する競合相手でもある。NTTは「電源がない」「設置スペースがない」という理由で回線の提供に協力的ではなかった。これに腹を立てた孫社長は、「喫煙スペースなど潰して、タバコはトイレで吸えばいいんだ」と、声を荒げることもあったという。

その姿は、アスキーの西氏と闘い、「ベンチャーの旗手」の称号を奪い取った創業期をほうふつとさせる。既存の権力組織を相手にした時の孫社社長は、常人では考えられないほどのパワーを発揮して、道を切り開いていく。ところが、この過激なまでの敵愾心は、勢い余って他のベンチャー企業にも牙をむける結果につながった。

     ■        ■

ADSLサービスにはNTT局舎内に機器を設置する必要があるのは、先に書いたとおりだが、この場所をヤフーBBが事実上〝占有〟してしまったのだ。このコロケーションスペースは、ADSL業者の申請順に早いもの勝ちで権利を確保できる。通信業界では「ヤフーBBは一千万回線分を占有している」とまで言われている。今年二月末時点のヤフーBBの会員は四十六万人であることを考えれば、もやは異常とも思える回線数を先取りしたことになる。NTT局のコロケーションスペースには物理的な限界があるので、この占有によって、他のADSL事業者はサービスを提供できない事態に陥ってしまった。イー・アクセスの千本倖生社長に聞いた。

「我々が申し込んだら、NTTから『使えません』という回答が返ってきた。なぜだ?と聞くと『ヤフーが全部抑えてます』と。驚いて、実際に大崎の電話局に行って調べてみると、ヤフーBBが八十架も抑えてるのです。それにも関わらず、機器を設置しているのは五、六架だけで、そのうち実際にサービス提供に使っているのは二つだけでした。これでは、大量の飛行機の予約をして他の利用者が乗れず空席で飛んでいくようなものです。競争相手の妨害ばかりか、国民経済という点からみても、お客さんの妨害にほかなりません」

イー・アクセスは、総務省に働きかけてコロケーション問題に関する公聴会を開いた。公聴会の席上、孫社長と対峙した千本社長は、「ライバル潰し」に等しい経営手法を非難したが、孫社長は一言も反論できず、問題をすり替えてNTT批判ばかりしていた。

「私は、『ちゃんとした事業計画に基づいて、コロケーションスペースの申請をしているのか』と問い質しましたが、孫さんは、具体的なビジネスプランについては一切の説明を拒みました。彼は、『ヤフーBBは挑戦者なんだ。挑戦者にもっと機会を与えなければいけない』と、しきりにNTTに矛先を向ける。私は、『孫さん、それは違うでしょう。挑戦者という姿勢は評価する。しかし我々も同じ挑戦者はなんだ』と言いました。彼は僕に反論しなかった。確かにNTTが全部フェアだったとは思いませんが、挑戦者がアンフェアであっていいわけがないのです」(千本社長)

ヤフーBBは、月額二千二百八十円という驚異的な安値で日本に高速インターネットサービスを根付かせた。旧弊を打ち破り、既成概念にとらわれない孫社長の経営手法は高く評価できる。しかし、その影でヤフーBBは、申込者にメールすら出さずに放置したり、約款を一方的に変更してみたりと、お粗末な企業体質を露呈している。公共的なインフラ整備という観点から、東京電力の荒木会長の言葉は重い。

「ライフラインの墨守という仕事は、汗をかきながら、下積みの努力をしなければ出来ない。みんなが気付かなくてもシコシコやって社会的な責任を果たすのが、我々のような電気事業者の風土です。孫さんは、我々と違ってコツコツと設備を建設してそれを保守するという仕事とは縁の無い人ですから、最終的にスピードネットに興味を失ってADSLにいったわけです。その意味では、ADSLだって分かりませんよ。あの人が関心を失えばまたサッと引くかもしれない。今までの経営もそうだったでしょう」

こうした声が孫社長の耳に届いていないのか、相変わらず「ブロードバンドの時代だ」と威勢のいい掛け声を繰り返している。しかし、その姿は何年も前の記者会見のビデオを見せられているようで新鮮味が感じられない。それは、かつての「衛星放送」「ネットベンチャー投資」「スピードネット構想」「日債銀」が、今たまたま「ブロードバンド」になっただけで、一年後の孫社長がまったく別の賢者の石を振りかざしていても不思議ではないからだ。

わずか二年間で、ソフトバンクの時価総額は二十兆円から、あっという間にその三十分の一にまで萎んだ。

冒頭に触れた錬金術師のフラメルは、最近の研究で、賢者の石の精製法を記した『象形寓意図の書』は他人が書いた偽書で、彼自身も単なる成金だったと結論づけられている。しょせん、この世に錬金術や賢者の石などは実在しない。しかし孫社長は、未だにその夢を追い続けている。その姿は、希望に満ち溢れた少年のようであり、同時に一攫千金にしか目が向かない山師のようでもある。


初出:孫正義 色褪せた錬金術師『文藝春秋』2002年6月号