「政治家」竹中平蔵 本当の実力 (文藝春秋)Part2

竹中を大阪大学に来るように声をかけたのは、本間正明・大阪大学院経済学研究科教授である。

「まだ竹中さんは、開発銀行の行員でした。これまでの設備投資に関する研究を大学で博士論文にまとめたらどうかと思ったのです。長富さんの了解は得たし、開銀の人事担当者にも会った上で、阪大に来てもらいました。竹中さんが持った講座は、企業から資金をあおいで運営する寄付講座です。大学でのテーマは自由にやってもらいましたが、学生の評判もよかったです。大阪大学にいた期間は短かったので、退任後の論文で博士号をとったんです」

しかし竹中は、阪大も二年で辞めて、アメリカに渡る。実は、阪大に誘われたといっても、それは事実上の「臨時雇い」のような扱いでしかなかったのだ。竹中が来る前には、先の吉田教授が阪大に二年間在籍していた。学外の研究者を「客分」として採用しただけで、博士号は阪大でとったものの、やはり竹中は、ここを「本籍」にすることは許されなかったのだ。

旧友のエコノミストが、竹中が米国に行った理由を解説する。

「平蔵さんの学者として力量を、誰もが認めたがらなかった。なぜなら彼が所属していた一橋のゼミも、学内ではそれほどの力を持っていなかったし、博士号は阪大で取っている。平蔵さんは、一橋派でも、阪大派でもなければ、官僚でもない。学閥か省庁のバックアップがないと、日本の学会では出世ができないのです。それで、やる気と能力さえあればチャンスを与えてくれるアメリカに希望を託したんだと思います」

もっとも、別のエコノミストは、まったく違った見方をする。竹中が名前を上げるキッカケになったサントリー学芸賞を受賞した著書『研究開発と設備投資の経済学』にまつわる「疑惑」が、日本の学界での出世を阻んだという。

「当事から、あの著書を、『別の研究者が書いた論文が含まれている』と批判する専門家がいたのは事実です。学芸賞の受賞では、かなり激しい売り込みがあったとも聞いてます。この話を聞いた宇沢弘文東大経済学部教授が、激昂したというのです。このため、竹中さんがシンポジウムを開こうとしても、宇沢先生が睨みを利かせている中では、なかなか参加者が集まらなかったと聞いてます。日本の学界で出世するチャンスが得られないと考えて、アメリカに行ったのではないでしょうか」

この稿では、竹中の著書が他人の論文だったかを検証することはしない。問題は、デビュー間もないエコノミストが、勲章となるべき著書を汚点扱いされたという事実である。宇沢氏といえば、過去においても現在でも日本の経済学界最大の重鎮であり、ノーベル経済学賞にもっとも近い日本人と言われる大物である。宇沢氏を引き合いに出してまで、若手学者を蹴落とそうとする日本の学界に、竹中が嫌気がさしたとしても、さして不思議ではない。

平成元年一月、竹中は初めて住所を米国に移転し、ハーバード大学の客員准教授となって渡米する。ところが翌年、ハーバード大学で研究に勤しんでいた竹中に、再び転機が訪れる。慶応大学が神奈川県藤沢市に「湘南藤沢キャンパス」を新設し、総合政策学部の学部長に就任した加藤寛氏から、誘いがかかったのだ。

「ゼミのOBを介して竹中君に打診したら、すぐに連絡が来た。彼にとっては渡りに舟だったろうな。ところが、学内では反対された。理由は、まったく無名で学会での実績もなかったし、彼がもともと研究畑にいなかったからです。確かに、その時点では、目立つような実績は無かった。佐藤誠三郎、江藤淳、公文俊平はすぐに賛成だったけど、まだ『竹中』という名前は学会で認知されてなかったんだな。学部長の僕が反対派を黙らせて、来てから数年間は、日本とアメリカで半々で生活することも許可した。僕としては、ああいう行動力のある人材が欲しかったんだよ」

この時、藤沢キャンパスの新設と加藤氏の勧誘がなければ、竹中は二度と日本の大学に戻ることもなく、のちに「竹中大臣」が誕生することもなかっただろう。慶応大学の助教授となった竹中は、自ら外資系企業を口説き、スポンサーにしてシンポジウムを開くなど、加藤の期待に応えようと動き回った。しかし、それでも慶応大学の「保守本流」である三田の経済学部は、竹中の働きを正当に評価しようとはしなかった。島田春雄・慶応大学教授が、こう証言する。

「藤沢キャンパスには、異質な人ばかりが梁山泊のように集りました。学生も海外からの帰国者が多かったり、第二外国語に欧米系以外の言語を選択させたり、理系、文系の垣根を外したりと、カルチャーは国際級なんです。あらゆるものをレボリューションしたキャンパスですから、三田は藤沢を評価できない。宇宙人を見るようなものです。もちろん、藤沢の連中は三田からどう見られようと関係ないという感じです。総合政策学部は、加藤先生が築いた理想郷なんです。平蔵に、もっともマッチしてる環境だったと思いますね」

竹中が「学閥を持たない放浪学者」であることに変わりはなかった。藤沢キャンパスで教鞭をとりながら、彼は、住民票を何度か日本とアメリカの間で往復させる。「住民税逃れ」と叩かれた奇怪な行動は、日本で学者を続けるか、それともアメリカに戻るか、逡巡する竹中の心境を物語るようだ。彼が、転々とさせた住所を日本に落ち着かせるのは、平成八年、ようやく慶応大学から「教授」の肩書きが与えられてからである。


初出:「政治家」竹中平蔵 本当の実力『文藝春秋』2003年11月号


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