「政治家」竹中平蔵 本当の実力 (文藝春秋)Part1


「金融担当大臣に残りたい」

自民党総裁選挙を一週間後に控えたある日、竹中平蔵・経済財政担当相兼金融担当相(52 )は、JR有楽町駅にほど近い生命保険会社のビルの一室でソファに腰をおろし、加藤寛・千葉商科大学学長と向かい合っていた。

反小泉勢力から格好のターゲットとなっていた竹中は、小泉純一郎首相から、「しばらく表に出るな」と厳命されていた。加藤と竹中は、十三年前に慶応大学藤沢キャンパスに新設された総合政策学部にスカウトしてからの付き合いである。この日、竹中が加藤の事務所に来るのは、半年ぶりのことで、秘書官も伴わずたった一人の「お忍び訪問」だった。二人は、郵政民営化などについて一時間にわたって話し合ったが、それ以外は、他愛もない四方山話に終始した。そんな会話の中で、竹中が、「金融担当大臣を続けたい」と心の内を吐露したのだ。

この時、小泉内閣の閣僚人事は、青木幹夫前幹事長や堀内光雄前総務会長の〝寝返り〟と引き換えに、「竹中から金融相ポストを剥奪する」という方向へ動いていた。事実、竹中本人に「辞任」を勧める議員もいた。竹中が、加藤に対して、「何としても金融担当相に残ってやる」という決意を露わにしたのか、それとも「残りたかった」と無念を語ったのかは分からない。

しかし、閣僚人事は、竹中の「思惑」通りに動く。圧倒的な得票差で再選された小泉は、周囲の反対を一切無視して、竹中の経財相、金融相の留任を断行した。「竹中留任」の知らせを聞いた青木は、取り囲む記者に「ノーコメント。論評しない」と突っぱねたが、記者の前では滅多に感情を表に出さない男の顔には、はっきりと血管が浮き上がって見えるほど「怒り」が滲み出ていた。

青木は「反竹中」の急先鋒だった。参議院本会議で、与党幹事長でありながら現職閣僚を糾弾し、「金融プロジェクトチーム」の最終報告をめぐっては、国会内の党総裁室に竹中を呼びつけ、「選挙もあるのに、あんたは責任がとれるのか!」と怒鳴りつけた。この時の竹中は、明らかに憔悴しきっていた。多くのメディアも「国賊」「外資の手先」と集中砲火を浴びせ、いずれ「不況の原因は竹中だ」という濡れ衣を着せられて、永田町から石もて追われるのも時間の問題だと思われていた。ところが、一年後には二人の立場は入れ替わった。「学者大臣」「タレント閣僚」と非難されていた竹中は、閣僚ポストを二つとも堅守し、逆に、青木は自民党の役員ポストを追われた。

「ただの学者だと思って、竹中を甘く見すぎていた。あいつは、政治家以上に政治家かも知れない」

自民党幹部からは、こんな声が漏れ始めている・・・。

優しげな表情で、テレビや雑誌に顔を出し、専門用語を使わずに経済問題を解説する。竹中の姿は、「目立ちたがり屋のタレント学者」にしか見えない。一橋大学卒、日本開発銀行、ハーバード大学、慶応大学教授という派手なキャリアも、一点の曇りもない華やかなものである。しかし、実は彼の半生は、苦渋に満ちたものだった。彼の足跡を詳細に辿ると、「笑顔の仮面」の裏に、「放浪学者」という、竹中のもう一つの顔が浮かび上がってくる。

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竹中は、和歌山市で下駄屋を営む両親の三兄弟の次男として、大学に進学するまでの十八年を過ごしている。下駄屋といっても、地元の百貨店にも店舗を持つなど家業は順調だったようで、竹中自身も決して貧しい少年時代を送っていたわけではない。

中学、高校時代の友人の岩本研氏は、少年時代の竹中をこう語る。

「中学生の頃から英語塾でいっしょに勉強してました。その塾は、近所の中学校からできる子が集まっていたのですが、その中でも平蔵君はよくできました。僕が先生に当てられたとき、平蔵君の足をコンコンと叩くと、横から答をささやいてくれる。でも先生も分かっていて、『こら、ヘイコー(竹中のあだ名)、また教えたやろ』と怒られ、『すんません』と言って、平蔵君が立たされたりしました。勉強だけでなく、野球をしたり、よく遊びました。ただ、話すことは中学生の感覚からちょっとかけ離れたことを言っていました。社会的な事柄や、日本の情勢など、新聞も熱心に読んでいたみたいです」

教育熱心な家庭で育ち、学業やスポーツでも積極的に活躍するなど、多くの同級生は竹中を「理想的な学生だった」と口を揃える。そんな竹中に、一橋大への進学を勧めたのは、倫理社会の教師の北内齊氏だった。

「私は担任ではなくて、高校二年の倫理社会を教えただけでした。授業では、『経済とは〝経国済民〟ということである、一生の仕事とするに足る学問だぞ』『そのなかでも近代経済学だ』と話しました。そういうことが竹中君の頭のどこかにあったんでしょう。大学受験をひかえたある日、竹中君が友だちと二人で宿直室に遊びに来たんです。夜遅くまで話し込みました。その時に、近代経済学をやるなら一橋がよかろう、という話をしたのだと思います。東大はマル経の学徒が多い時代でしたが、一橋は近代経済学が盛んでした。東大入試のなかった年でしたが、竹中君自身も東大入試があっても一橋を選んだ、と言っているようです」

一橋から日本開発銀行に入行した竹中が、最初の転機を迎えるのは、大蔵省の財政金融研究室(後の財政金融研究所)に、次席主任研究官として出向してからである。当事の筆頭主任研究官で、竹中の上司だった吉田和男・京都大学教授がいう。

「ちょうど、ハーバード大学とペンシルバニア大学へ留学して帰ってきた時に、出向で研究室に来たのです。彼は、地道な研究スタイルです。酒が飲めないのに、嫌な顔もせずに、酒席に付き合ってました。その頃、ハーバード大でエーベル助教授と共同研究をしていたものをまとめて、最初の著書を出したんですね。大学の外にいる人間が、あれだけの研究をまとめるのは大変なものです」

この著書が、『研究開発と設備投資の経済学』(東洋経済新報社)で、処女作にしてサントリー学芸賞を受賞し、一研究員に過ぎなかった竹中の名声を一気に高めることになる。

さらに、大平正芳首相の首席補佐官だった長富祐一郎氏(社団法人研究所基金・議長)の「寵愛」を受けたことが、日本の学会に「顔」と「名前」を売ることにつながる。長富氏が作った「ソフトノミクス研究会」には、気鋭のエコノミストたちが参加していた。日銀政策委員の植田和男・東大教授や、今では〝反竹中〟の急先鋒の植草一秀・早稲田大学教授もメンバーの一人だった。竹中は、「長富の右腕」として認知されていく。長富氏が語る。

「たまたま、財政金融研究所を担当する官房調査企画課長になった時、竹中君がいたのです。行動力のある男で、私も海外の大学などで講演するときに、彼に引っ張りまわされました。海外での活動は、ほとんど竹中君が仕切ったんだと思います。竹中君は、すでにローレンス・サマーズ(元米財務長官、現ハーバード大学学長)、やジェフリー・サックス(現ハーバード大学国際開発研究所所長)と知り合いでした。当事としては意外かもしれませんが、おそらく米国では、自分の考えをもって行動する男であれば、竹中君のような若造でも、サマーズと友人になれたんだと思います」

長富氏は、行動力のある竹中を手離したくなかった。普通なら、二年で終わる出向期間が五年に延び、長富氏は、「開銀から研究所に籍を移したらどうだ」と誘いをかけた。竹中が開銀の仕事を物足りないと思っていると感じたからだ。もちろん、開銀からの出向者が大蔵省に籍を移すことなど前例がない。長富氏は、自分の権限で無理やりにでも竹中を取りたかった。しかし、竹中はこの申し出を断ってしまう。設立間もない財政金融研究所に残っても、キャリア大蔵官僚にはなれない。出世は不可能だ。

「経世済民」を誓った竹中が、「本籍」とするには、研究所はあまりにも小さすぎたのかもしれない。竹中が次に選んだ選んだのは、大阪大学経済学部助教授という肩書きだった。


初出:「政治家」竹中平蔵 本当の実力『文藝春秋』2003年11月号


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