巨艦みずほ失敗の本質『文藝春秋』Part1

「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国」(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに=『古事記』)
元来、みずみずしい稲穂が豊かに実る国という意味を持ち、日本国の美称であったはずの「みずほ」の三文字は、いつの間にか禍々しいイメージに塗り替えられてしまった。駅のスタンドに並ぶ夕刊紙には、連日、「崩壊」「倒産」「国営化」といった見出しが躍る。みずほフィナンシャルグループの持ち株会社「みずほホールディングス」(HD)の株価が百円割れ(五十円額面換算)し、来年三月期に二千二百億円という桁外れの連結赤字になる以上、みずほが「危機」に直面しているのは紛れもない事実である。
しかし、みずほグループの危機とは、すなわち、「水穂国(日本経済)の危機」であると、いったい、どれほどの日本人が認識しているだろうか。
言うまでもなく、みずほグループは、日本興業銀行、第一勧業銀行、富士銀行の三行を統合した世界最大の金融グループである。一口に「世界最大」といっても、その規模の大きさは、おそらく我々の想像をはるかに凌駕するものだ。興銀、一勧、富士は、GHQによる財閥解体後、旧三大財閥(三井、住友、三菱)以外で、新たに形成された企業グループの中核銀行だった。富士は、旧安田財閥を中心に複数の旧財閥が集まって「芙蓉グループ」を作り、一勧は、旧古河財閥系と融資先企業で「三金会」を組織。興銀は重厚長大産業を中心にグループを形成した。

「奢れる巨像」日本経済新聞の自殺~鶴田卓彦前会長の絶頂と転落(文藝春秋)Part4

「社長に気に入られないと出世できない」という空気が蔓延する日経社内で、大塚は異質な存在だった。部下を厚遇して自分の味方をつくるような「鶴田流」の生き方とは対照的な記者で、誤解を承知で書けば、変わり者である。

「典型的な一匹狼です。取材相手の都合や下で動く部下の事情には、一切頓着しない。彼の関心は、『報道する価値があるか』という一点です。だから、どんなに親しく付き合っていた取材相手でも、『批判しなければならない』となれば、一転して追及します。上司と意見が合わなければ、面と向かって議論を挑みます。社内では、今回の行動に驚いた人より、『大塚さんなら当然だろう』と受け止めている人の方が多いと思う」(日経新聞デスク)

大塚は、「敢えて自分の会社を告発した」のではなく、「たまたま追及する相手が自分の会社だった」という程度の意識である。

一方の鶴田は、上司、部下、取材先、そして夜遊びの場でも、誰からも愛されようとして、傑出した「組織内浮遊能力」を発揮して社長に登りつめた。彼には、大塚のジャーナリストとしての「当然の行動」は理解不能だ。また「兜町新聞」をクオリティペーパーに育てた鶴田と、すでに大企業の日経に入社した大塚とは、会社に対する「思い入れ」も、決定的に異なるだろう。

「奢れる巨像」日本経済新聞の自殺~鶴田卓彦前会長の絶頂と転落(文藝春秋)Part3

「もしあの時」

多くの日経OBが、今日の鶴田体制の混乱を招いた遠因として挙げる社長人事が決まったのは、昭和五十六年のことである。『勝負の分かれ目』(下山進著)によると、この年の十二月、圓城寺の後を継いだ大軒順三社長が入院する国立医療センターの個室に、常務の新井明が見舞いに訪れ、次期社長の人事を書き残すよう頼んだという。新井は、自分が指名されると信じていたが、大軒が書いた名前は、専務の森田康雄だった。

大軒の長男で、朝日新聞社員の大軒由敬氏が、当時を振り返る。

「新井さんとは家族ぐるみの付き合いでした。父が入院した後、新聞記者としての興味から、『次の社長は誰になるの?』と母に聞いたら、『どうも森田さんらしい』というので、ちょっと意外に思った記憶があります。父が、なぜ新井さんを指名しなかったのか、その理由は私には分かりません」

もっとも、園城寺の下で電子メディア戦略の中枢を担ってきた森田の社長就任は、順当な人事であった。しかし、新井はそうは考えなかったらしい。当時の日経役員が振り返る。

「奢れる巨像」日本経済新聞の自殺~鶴田卓彦前会長の絶頂と転落(文藝春秋)Part2

「なぜ鶴さんは、あんな風になってしまったのか。未だに信じられない」

若い頃の鶴田を知る日経OBたちは、週刊誌などで報じられる「独裁者・鶴田」像に揃って首をかしげる。

「彼が最初に配属されたのは、工業部(現在の産業部)でしたが、特ダネを抜いたり、人の裏をかくような取材はできなかった。文章も決してうまくなかったですが、コイコツと取材するタイプでした。水戸っぽらしく、昔のミッチーさん(故・渡辺美智雄氏)のようなしゃべり方で、兄貴分ぶるところもありましたが、誰もライバル視してなかった」(同期入社のOB)

入社当時の鶴田の夢は、多くの新聞記者が望むように、花形部署で働くことだったらしい。鶴田の下で働いたことがある日経幹部は、こういう。

「当時の工業部は、中小企業の取材が主でしたから、彼は経済部に行きたくて仕方がなかったようです。当時はいいコースだったワシントン特派員も希望して、それが出来ないと、ひどく落ち込んだそうです。夢がかなって、経済部に移ると、持ち前の馬力を発揮しました。鶴田さんは『書き魔』で、記事、タイトル、コラムまで全てを埋め尽くすほど出稿して、一面すべてを鶴田さんの記事で牛耳ったという伝説も残っています。スクープを連発する天才型ではありませんが、大蔵省キャップ時代は、朝も夜も厭わずに取材して、一週間に三~四本は一面トップを書いていたそうです」

「奢れる巨像」日本経済新聞の自殺~鶴田卓彦前会長の絶頂と転落(文藝春秋)Part1


昭和二十七年四月。

サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約の発効で、GHQによる「占領時代」が終焉したこの月に、早稲田大学政経学部を卒業した、茨城県水戸市出身の一人の青年が、『日本経済新聞社』の門をくぐった。

当時の日経新聞は、仰々しく「日本経済」の名を戴いているが、発行部数は五十万部程度で、この年の新入社員も約二十五名と、中堅新聞社に過ぎなかった。三井物産の子会社だった『中外物価新報』という相場情報紙からのイメージを引きずり、「兜町新聞」「株屋新聞」の渾名で、朝日、毎日などの一般紙の記者から揶揄されていた・・・。

それから半世紀。

「政治家」竹中平蔵 本当の実力 (文藝春秋)Part4

経財相に就任した直後、柳沢伯夫金融担当大臣(当事)と金融政策を巡って衝突し、自民党執行部と対立した。しかし、青木や柳沢らの「抵抗勢力」を黙らせるために、頻繁に渡米してハバード大統領経済諮問委員会委員長らと会談し、「構造改革について賞賛と期待があった」と、アメリカからのお墨付きで正当性を訴えたところに、「学閥」を持たない学者の戦略の稚拙さがあった。

その姿は、帰国子女が日本の学校の校則に「アメリカではこうだ」と文句をつけているようで、当然「ここは日本だ!」という感情的な反発を招く。政治家を相手にして感情のぶつかり合いになれば、たとえ「喋りのプロ」の竹中でも、論理的な説得は不可能だ。竹中に学閥のバックアップがあれば、網の目のように張り巡らされた「政治家ブレーン」を通じて、柔軟に政策を通すことが出来たはずだ。それを持っていないため、竹中は、「正論」で戦うしか手段を持たなかったのだ。

この頃、竹中は同じ轍を踏みつづけていた。昨年夏、日銀の金融緩和を主張する竹中と日銀首脳が、日銀の接待施設である赤坂の氷川寮で対峙した。竹中が、日銀の金融政策決定会合に出席して苦言を呈し、諮問会議でもお互いの主張は平行線のままだった。仲をとりもつための会食のはずが、竹中は喧嘩腰になり、「「あなたが、そんなことだから駄目なんだ」と捨てゼリフを残して、そのまま席を蹴って帰ってしまった。

「政治家」竹中平蔵 本当の実力 (文藝春秋)Part3

「教授」になった竹中は、吹っ切れたようにマスコミに登場し始める。平成九年には、「東京財団」(当事は国際研究奨学財団)の理事に就任し、経営企画コンサルティング会社の「サイズリサーチセンター」を設立する。みずから実業界に働きかけ、現実的な政策提言が可能な集団を作り出そうとしたのは、象牙の塔から拒絶され続けた竹中にとって、むしろ当然の選択肢だったろう。

小渕内閣で「経済戦略会議」のメンバーに選ばれたのも、学会からの推挙ではなく、アサヒビールの樋口廣太郎名誉会長の紹介だった。経済戦略会議の座長は樋口氏だったが、実質的なリーダーは、中谷巌・一橋大学教授だった。戦略会議は、国家行政組織法第十八条によって設立されたもので、通常の審議会などとは違い、内閣に具体的な政策提言をすることが出来た。もっとも、メンバーに大企業トップが多かったこともあり、実質的な議論を深めるよりも、「ハリキリボーイの竹中」だけが浮いたような存在だったという。この頃の竹中を知るエコノミストは、こう解説する。

「戦略会議では、竹中さんは大物学者や財界人に囲まれた『ワン・オブ・ゼム』に過ぎませんでした。小渕総理の前で必死に自分の主張をしていましたが、取り上げてもらえなかった。彼は、アメリカの学者仲間が参加しているホワイトハウスの経済諮問委員会をイメージしていたようで、理想と違い過ぎたんでしょう。同じ一橋出身の中谷さんの役に立ちたいという気持ちも強かったようですが、結局、空回りしていました」

「政治家」竹中平蔵 本当の実力 (文藝春秋)Part2

竹中を大阪大学に来るように声をかけたのは、本間正明・大阪大学院経済学研究科教授である。

「まだ竹中さんは、開発銀行の行員でした。これまでの設備投資に関する研究を大学で博士論文にまとめたらどうかと思ったのです。長富さんの了解は得たし、開銀の人事担当者にも会った上で、阪大に来てもらいました。竹中さんが持った講座は、企業から資金をあおいで運営する寄付講座です。大学でのテーマは自由にやってもらいましたが、学生の評判もよかったです。大阪大学にいた期間は短かったので、退任後の論文で博士号をとったんです」

しかし竹中は、阪大も二年で辞めて、アメリカに渡る。実は、阪大に誘われたといっても、それは事実上の「臨時雇い」のような扱いでしかなかったのだ。竹中が来る前には、先の吉田教授が阪大に二年間在籍していた。学外の研究者を「客分」として採用しただけで、博士号は阪大でとったものの、やはり竹中は、ここを「本籍」にすることは許されなかったのだ。

旧友のエコノミストが、竹中が米国に行った理由を解説する。

「平蔵さんの学者として力量を、誰もが認めたがらなかった。なぜなら彼が所属していた一橋のゼミも、学内ではそれほどの力を持っていなかったし、博士号は阪大で取っている。平蔵さんは、一橋派でも、阪大派でもなければ、官僚でもない。学閥か省庁のバックアップがないと、日本の学会では出世ができないのです。それで、やる気と能力さえあればチャンスを与えてくれるアメリカに希望を託したんだと思います」

「政治家」竹中平蔵 本当の実力 (文藝春秋)Part1


「金融担当大臣に残りたい」

自民党総裁選挙を一週間後に控えたある日、竹中平蔵・経済財政担当相兼金融担当相(52 )は、JR有楽町駅にほど近い生命保険会社のビルの一室でソファに腰をおろし、加藤寛・千葉商科大学学長と向かい合っていた。

反小泉勢力から格好のターゲットとなっていた竹中は、小泉純一郎首相から、「しばらく表に出るな」と厳命されていた。加藤と竹中は、十三年前に慶応大学藤沢キャンパスに新設された総合政策学部にスカウトしてからの付き合いである。この日、竹中が加藤の事務所に来るのは、半年ぶりのことで、秘書官も伴わずたった一人の「お忍び訪問」だった。二人は、郵政民営化などについて一時間にわたって話し合ったが、それ以外は、他愛もない四方山話に終始した。そんな会話の中で、竹中が、「金融担当大臣を続けたい」と心の内を吐露したのだ。

これから問われる「M&A」アドバイザーの価値『Foresight』Part2

それでも、都銀の一行員に過ぎない佐山の手元に、巨額の成功報酬が入るわけではなかった。日本長期信用銀行、日債銀が国有化され、地銀が相次いで経営破綻する中で、佐山は銀行を退社する。四人のメンバーで投資ファンドの「ユニゾン・キャピタル」を設立し、東鳩、マインマート、キリウなどの買収を手掛け、〇四年に「GCA」の代表に就任した。

しかし、かついてディールの金額に応じて支払われていたM&Aのアドバイザーのフィーは、ダンピングが進み〝儲からない商売〟になっていた。ゴールドマン・サックス(GS)やモルガン・スタンレーは、自ら巨大なファンドを組成して企業や不動産への直接投資で巨額のリターンを稼ぎ出す時代に変っていた。なぜ、時代の流れに逆行して、投資ファンドを捨てて、M&Aのアドバイザーになったのか。

「ユニゾンは一号ファンドの投資を終える五年で辞める予定でした。とりあえず次の仕事として個人会社でアドバイザーの会社を作ったところ、思った以上にM&Aのマーケットが成長している。そして、私の目から見ると日本にはM&Aのプロが百人に一人いるかいないかで、『お金』ばかりを言っている。逆にお客さんのためのアドバイザーとなれば成功すると思った。設立当時から、『三年以内に上場を目指します』と明言していました」(佐山)

これから問われる「M&A」アドバイザーの価値『Foresight』Part1


一九八七年九月、大阪市中ノ島の「大阪ロイヤルホテル」(現リーガロイヤルホテル)で、明星工業によるボイラー会社買収の調印式が行なわれた。巨額のM&A(企業の合併・買収)が日常化した今から見れば、わずか五億円のディールにも関わらず、プロのカメラマンを雇い、銀行首脳まで列席して調印式をしたのは、三井銀行(当時、現三井住友銀行)が立ち上げたM&Aチームによる第一号案件だったからだ。

このチームの中に、二カ月前に帝人から転職したばかりの佐山展生がいた。佐山は、京大工学部を卒業後、十一年間、愛媛県松山市の化学工場でポリマーの研究開発に携わっていたが、新聞広告をみて三井銀行の中途採用に応募して入行した。佐山がチームの一員になったのは、「ボイラー技師の資格を持っているなら、何かの役に立つだろう」という上司の単純な発想からだった。

「この時、買収がまとまらなければボイラー会社は倒産して、社員が職を失うところでした。従業員と一緒に、一カ月かけて事業計画や買収価格を策定したのです」(佐山)