外資系投資銀行の虚像と実像『週刊新潮』 Part4

不良債権部隊が派手な買収で利鞘を稼ぎ出していた頃、持田昌典=現ゴールドマン・サックス証券社長=は、GS東京支店長に就任していた。もっとも「支店長」とは名ばかりの肩書きで、NTTドコモの新規公開というGSの歴史に残る偉業を果たしたにも関わらず、持田の上にはマーク・シュワルツという「天下り外人」が社長として君臨していた。

持田が、さらに「白人の上」を狙うには、MSのカルシやシュミットと同様、実績を作る以外にない。IBDの実績は、「M&Aリーグテーブル」の順位によって決まる。「リーグテーブル」とは、アドバイザーとなった投資銀行や証券会社のランキングで、M&Aの取引金額の多い順に民間の調査会社が集計したものである。

「投資銀行が得るM&Aのアドバイザリーのフィー(手数料)は〝レーマン方式〟によって算出されます。例えば、取引額が三億円以下なら八%、三億円から五億円なら六%という具合に取引額に応じて成功報酬が増減する仕組みで、巨額のM&Aであればあるほど、投資銀行の懐に入る金額が増えることになります」(M&Aコンサルタント会社幹部)

持田が率いるIBDが、巨額M&Aのターゲットとして選んだのは、「銀行合併」のアドバイザーを請け負うことだった。そして、一勧、富士、興銀の三行が「みずほフィナンシャルグループ」へ経営統合する際のアドバイザーとなり、平成十一年のリーグテーブルで、GSは「日本企業が関わるアドバイザリーランキング」の取引額ベースでトップに躍り出た。

しかし、江原を失っていたGSが、なぜ、みずほのアドバイザーに簡単に就任することが出来るのか。実は、この順位に異を唱えるM&Aのプロは多い。

「みずほの三行統合は、合併比率も1対1対1と最初から決まっており、頭取同士で基本合意書も締結されていた。そもそも、興銀と一勧の合併比率が同じはずがない。デューディリジェンス(資産査定)もやらず、それらしいオピニオン・レター(第三者の意見書)を出しただけ。みずほ側も外資がリーグテーブル争いをしているのを知っていたので、ダンピングした結果、本来、もらえるはずのフィーは支払われず、受け取った成功報酬は一千万円程度になったと聞いてます」(投資銀行幹部)

リーグテーブルという〝名目上の〟実績作りのため、敢えて利益を度外視してダンピングまでした〝成果〟だという指摘である。持田が不毛なリーグテーブル争いを演じている中、「外資」を語る上で最も重大な事件が起きた。国有化されていた長銀が、米系投資ファンドのリップルウッドに売却されたのだ。

  ■    ■

長銀の売却では、「瑕疵担保特約問題」と新生銀行が上場した際に、キャピタルゲインに課税できないという二つの問題が指摘されている。この問題では、リップルウッドと新生銀行の八城基政社長に対して、「ハゲタカ外資に国民の税金を奪われた」と、批判の矛先が向けられた。

「当時の〝外資批判〟はあまりにも的外れです。リップルウッドは、長銀売却後の二次ロスを応分に負担する〝ロスシェアリング〟を主張したにも関わらず、なぜか金融再生委員会が、〝瑕疵担保〟という不利な条件を提示した。責任を問われるべきは、金融再生委員会と政府、そして政府側のアドバイザーを担当したGSです」(外資系投資銀行幹部)

「瑕疵担保」という条件を考え出したのは、再生委の一人だという。これに対してGSは「その条件は不利だ」と、的確なアドハイスをしたのか。そして、「このままのスキームでは税金が取れない」と、指摘したのだろうか。

金融再生委員会の数百枚に及ぶ議事録を見ると、GSの発言はすべて黒く塗りつぶされている。その理由は「守秘契約」だという。しかし、この当時、GSは、巨額ディールが欲しいだけで、安価でアドバイスをしていたと言われている。黒塗りの議事録の下に隠されているのは、「止むを得ない事情」か、それとも「手抜き」の証拠だろうか---。

リップルウッドによる長銀買収が決まった平成十一年、ニューヨークのGSも百三十年の歴史の中で、最大の激震が走っていた。一月、CEOのジョン・コーザインが「会長」に祭り上げられ、ハンク・ポールソンが単独CEOにとなった。五月には、長年続いたパートナーシップを解消して株式を公開。これによって「古き良きGS」は、名実ともに「普通の営利企業」になった。

そして、コーザインが経営の再前線から引くことは、日本のGSにも波風を起こす結果となった。

「当時のGSの日本人の大半は、コーザインが採用したのです。債券部のヘッド時代のコーザインは、毎日のように日本に電話をしてました。来日すれば、深夜まで部下を引き連れて飲み歩くような男で、尊敬され、慕われていました。一方、コーザインに代わってCEOになったポールソンは、IBD出身で、最も親しい日本人パートナーが持田さんだったのです」(当時を知るGS元社員)

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GSを退社した江原は、家族とともにカリフォルニア南部のサンディエゴで休暇をしていた。しかし、北拓、山一の倒産のニュースを聞いて帰国する。江原は、リップルウッドが日本に上陸するよりも早く、企業再生ファンドの「ユニゾン・キャピタル」を設立し、金融界へ復活を遂げる。ユニゾンは、アスキーや東ハトなど数社を買収し、日系の投資ファンドでは中核的な存在となった。しかし、あるGS元社員は、こんな危惧を口にする。

「今の日本の『乱暴すぎるマーケット』では、他の外資系ファンドと戦って勝ち残っていくには、江原さんは紳士すぎるような気がします・・・」

この言葉にある「乱暴なマーケット」を作ったのとは、江原自身が初代日本人パートナーを務めたゴールドマン・サックスに他ならない。

「かつて江原さんが、十数年かけて築いたNTTや金融機関との信頼関係も、ここ数年のGSの手法が一因で冷え込んでいると聞きます。顧客の利益を蔑ろにして自分たちの利益を最優先するようなアドバイスをして平然としていられる。弱った企業からは徹底的に買い叩き、知識の無い者に不利な契約を押し付けて、〝それがビジネスの勝者だ〟という主張が認められつつある」(日系の大手証券会社幹部)

江原がGSのパートナーだった頃、投資銀行のバンカーは飽くまでも〝黒子〟で、主役は企業の経営者や従業員だった。顧客の投資やファイナンスを手伝っても、投資銀行が前面に出ることはなく、その必要も無かった。ところが今や、こうしたお題目は壁にかかってしまった。ライブドアのニッポン放送買収で、株式市場を混乱に陥れたリーマン・ブラザーズを『したたかな外資』と持ち上げる風潮すらある。

江原に、なぜGSを辞めたのか、そして今のGSについて、どう考えるか聞こうとしたが、「もう九年も前のことですから、何もお話しすることはありません」と答えるだけだった。

平成十三年、CEOのポールソンの後ろ盾を得た持田は、「ゴールドマン・サックス・ジャパン・リミテッド」の社長に就任する。そして、日本でフィービジネスが儲からないことを悟ったのか、債券部や不良債権ビジネスで成功を収めたアービトラージ(利鞘稼ぎ)ビジネスに乗り出す。GSは、投資銀行でありながら、一方で「企業」そのものを売買する巨大投資ファンドへと変貌しようとしていた。

GSが、アドバイザーとプリンシパル・インベストメント(自己勘定投資)という二つのビジネスを両輪にして走り出した時、持田昌典自身も、〝凄み〟すら感じられるバンカーへと変貌を遂げていく。

圧倒的な強さを見せつけ始めた「持田GS」からは、かつてのパートナーたちが、一人ずつ消えていった。そして、十年以上も勤めたマネージング・ディレクタークラスの社員も次々と退社している。

「目が覚めている間は仕事のことだけを考えろ」「日曜日は休日じゃない。接待ゴルフの日だ」「勝つために必要なことをやれ。それ以外のことをやる必要は無い」「俺の部下は俺の言う通りに動けばいい」

GSは確実に、「持田独裁」へ向けて歩き出そうしていた。

(文中敬称略)

初出:「ハゲタカ外資の虚像と実像」(中編)『週刊新潮』2005年7月7日号


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