ゴールドマン・サックスの正体『文藝春秋』Part2

持田の入社から五年後の九〇年二月、ソロモン・ブラザーズの東京支店の若き債券トレーダー、二十六歳の松本大は、友人の紹介でGSへの転職を決意する。

松本は、東大法学部を卒業後、海外旅行で自分の意志が伝えられなかったことにショックを受け、「英語を喋れるようになりたい」という理由でソロモンに入った。ニューヨークの新入社員研修で、MBA取得者などを向こうに回し、債券数理などのテストで百二十名の中でトップを取るなど、持田とは対照的にデビューから「天才」ぶりを発揮していた。

当時のソロモンは、「キング・オブ・ウォールストリート」の名に相応しい派手な会社だった。ところが、一方のGSは、未だにパートナーシップ(共同経営)を守る、堅実だが地味な会社だった。おそらく松本が転職した時は、債券部については、メジャーリーグからマイナーリーグに降格したような感覚だったかもしれない。松本が、当時の様子を語る。

「(GSの)債券部のレベルがあまり高くなかったので驚きました。債券数理とかデリバティブとかマーケットとか、色んなことに対する理解力がソロモンと比べると低かったように思います。ところが、当時のGSの方は、あまりそうは感じてなかったかも知れません。というのは、当時、債券ビジネスに関してはソロモンが超トップで、その下にモルガン・スタンレーやGS、更に下にリーマン、はるか下に日系があったからです。全体のピラミッドの中ではGSは格上でした。でもソロモンからレベル低かったですね」

松本はGSに入社した年から、デリバティブ(金融派生商品)のデスクをゼロから立ち上げた。トレーディングルームを作り、自らロータスでプログラムを組んだ。ソロモンがスキャンダルなどで力を落とす中、松本がトップ走者になったGSの債券部は莫大な収益を稼ぎ出す。松本の派手な活躍は、当然、ニューヨークからも高く評価された。九四年、松本は三十歳でGSの「史上最年少のパートナー」という栄冠を手にする。

「ウォールストリートの一般常識として、GSのパートナーというのは特別なもので、本当のプルーブ(証明)です。私は、アメリカ人でもないので、英語もネイティブほど話せません。・・・まぁ、どこかにコンプレックスがあるわけです。そういうのがGSのパートナーに選ばれた事で、金融の世界においても、欧米の世界においても、『私はゴールドマン・サックスのパートナーです』というだけで、理解され、あとは説明しなくてもいいわけです」

この頃、GS東京支店は、松本大によってその存在を保っていた。しかし、彼が手掛けたのは債券のディーリングやデリバティブであり、GSの保守本流である「投資銀行業務」は、まだ大きな成果を上げることはできなかった。投資銀行業務を担当していたのは持田である。松本より二年早くパートナーに就任していた持田の名前は、日本の金融界では、まだ無名だった。

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東大経済学部を卒業した山﨑養世が、友人から「気でも狂ったのか?」と言われながら大和證券に入社したのは、バブルすら萌芽していない八二年である。当時の証券会社は、「株屋」のイメージが強く、よほどの理由が限り、東大出のエリートが選ぶ職場ではなかった。東大の諸井勝之助ゼミで、国際金融を学んだ山﨑は、「これからは直接金融の時代だ。投資銀行業務が伸びる」と確信して、高校、大学の先輩の紹介で、MBA留学と国際金融の部署に配属されることを条件に、大和に入社したという。

彼が、GSへの転職を決意したのは、アメリカ大和證券時代に、GSのパートナー、ジョン・コーザインと出会ったからだという。

「日本の会社の社長より、コーザインのほうが日本のことを知っていた。これはショックでした。その時に、もう負けたと思いました。勝てるわけ無いじゃないですか。大和は僕を引き止めましたが、GSに行くと決めました」(山﨑)

九四年、GSの資産運用部に入った三十五歳の山﨑がやったのは、「年金」の運用を奪ってくることだった。バブル崩壊後、企業年金や厚生年金は危機的な状態になっていた。山﨑は、大蔵省や厚生省を口説いた。

「年金基金が目減りしてるのに、日本株にしか投資できない。金利も株も海外のほうがいいのに、能力がないから出来ない。政府との交渉の中から、公的年金の自由化、投資信託の自由化をさせ、企業年金の自由化と時価評価を実現した。そこから営業活動をはじめたんです。まずシステムを変える。そして国の事業を奪る。ビジネスを取りに行くんじゃなくて、こうすべきだと提案する。生保が潰れて、年金が目減りたらどうなるかと。我々は実績はなかったが、トヨタ、ホンダ、ソニーも客になってくれた。我々がやらなかったら、生保破綻で巨額の損が出たはずで、それを未然に防いだ。だから、何が外資系批判だと思う。日本の銀行は、国民の資産を食い潰して自分たちだけを守ってもらう、寄生虫みたいなことをやれなくなるから困ってるだけの話じゃないか。国民の税金を何十兆も損させているのはオマエらだと言いたいね」(山﨑)

九六年、年金福祉事業団が投資顧問会社を初めて採用した際、その一社にサックスが選ばれた。

この頃から、持田に出番が訪れる。持田が率いる投資銀行部隊は、九六年には日本たばこの政府保有株の第二次売り出しのコーディネーターをつとめ、翌年にはあさひ銀行の一千億円のエクイティ・ファイナンス(株式発行による資金調達)の共同主幹事となる。大手証券の引受担当者が語る。

「印象的だったのは、日本たばこの売り出しですね。『ついにここまで来たか』と驚きました。証券会社にとって、株式の引受は、もっとも儲かるビジネスです。しかも、政府放出株や民営化については、日本の証券会社が分け合って当然だという甘さがあった。しかし、翌年には野村證券は総会屋事件で社長が逮捕されて、業務停止処分も出ていた。とても、GSには太刀打ちできなかった」

しかし、GSは運だけでディールを獲得したのではない。ターゲットリストの筆頭にあった「NTT」を陥落するため、GSは周到な用意と戦略で当たった。持田は、通信専門のアナリストのエリック・ガンを筆頭に、スペイン、ドイツでテレコムの自由化を手掛けた「外人部隊」を日本に呼び寄せた。さらに、GS出身の米政府高官やUSTR(米通商代表部)が、外交ルートを通じて、NTTの既得権の自由化などで外圧をかけたことも、GS流の「ビジネス」とも言える。

そして、九八年、GSは、NTT移動通信網(NTTドコモ)の二兆一二五五億円の新規株式公開の主幹事を獲得する。長い時間をかけて政府を落とし、巨大なディールで一気に儲けるという、GSが最も得意とする手法の結実だった。これが、日本の大手証券を震撼させた「ドモコ事件」である。そして、GS入社から十三年目にして、史上最高額の新規公開を成し遂げた持田の名前は、世界中に知れ渡る。GSは、「債券部の松本時代」から、「投資銀行の持田時代」へと急転換し、黄金期を迎えることになる。

初出:『文藝春秋』2004年1月号(文中敬称略)

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