外資系投資銀行の虚像と実像『週刊新潮』 Part1



六月初旬。

数名の外資系投資銀行のバンカーが、埼玉県所沢市の西武鉄道本社を訪れていた。訪問の目的は「西武鉄道の買収交渉」。その外資とは、米系投資銀行のゴールドマン・サックス証券(以下、GS)である。この時、西武とGSは初の公式会合だった。しかし、その場に、GSのトップである持田昌典(50)と、みずほコーポレート銀行出身の後藤高志・西武鉄道社長(56)の姿は無かった。

「後藤社長と持田社長が、直接会って交渉することはあり得ないでしょう。なぜなら、二人の間には、絶対に埋めることが出来ない『溝』があるからです」(メガバンク幹部)

外資--。

不況にあえぐ日本経済を尻目に、外資系の投資銀行や投資ファンドが日本全土を席巻し、不動産、ゴルフ場、ホテル、そして一部上場企業をも買い漁っている。ニッポン放送株を巡るフジテレビとライブドアの争いの背後では、米系投資銀行のリーマン・ブラザーズが数百億円もの収益を上げたと言われている。

バブル崩壊後、都心の一等地に新築された巨大なオフィスビルには、決まって外資系金融機関が入居している。日本橋の東急百貨店の跡地にはメリルリンチ、恵比寿ガーデンプレイスにはモルガン・スタンレー、そして、六本木ヒルズにはGSとリーマン・ブラザーズ・・・。こう見ると、東京中が外資に「侵略」され、紅毛碧眼の外国人が荒稼ぎをしているような錯覚を抱いてしまう。

しかし、外資系投資銀行のトップのほとんどが日本人で、当たり前のように億単位の年収を稼ぎ出している。彼らは、なぜ成功者となりえたのか。そして、その成功は、真実の「勝利」と言えるのか。「最強外資」と呼ばれるGS社長の持田昌典を中心に、彼らのビジネス人生を辿りながら、外資で戦う日本人たちの虚像と実像に迫りたい。

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昭和二十九年、持田昌典は、千代田区神田和泉町で羊毛卸し業の「メリノ」を経営する父・武雄、母・清子の長男として生まれた。子供時代から裕福に育ち、今では「お受験御三家」と言われる西麻布の若葉会幼稚園から、慶應の幼稚舎(小学校)に進学する。

持田が中学生になる頃には、父親が一代で築いたメリノは、子供用ニット製品の専門メーカーで業界トップとなり、年商数十億円を誇る企業に成長した。渋谷区松涛の高級住宅地に六階建ての自社ビル兼住居を構え、父親は運転手付きのBMWに乗り、軽井沢に別荘を持つようになった。休日には、近くに住んでいる女優の山本富士子夫妻とともにゴルフに出かけるなど、典型的な「上流階級」の仲間入りをした。

武雄は、誰よりも早く出社して社内を掃除し、毎朝、写経をしていた。ロマンスグレーの髪も一糸乱れることがなく、紳士の装いを崩さなかった。森ビルの頭山秀徳常務は、伊勢丹社員時代に見た武雄をこう表現する。

「細身のロンドン調といった感じのカシミアのダブルで、ポケットチーフが入るようなコートを着ていたのを覚えてます。本物の英国の紳士といった方で、単に高いものを着ているのではなく、戦前の方の本格的なおしゃれで、今の人とはレベルが違う、身に付いたおしゃれでした」

一方、母親の清子は、持田を厳しく躾けていた。幼少時代からの親友、横山健次郎はこう語る。

「私たちは家族ぐるみの付き合いをしていました。お母さんは非常に厳しい方です。子供の頃、『勉強しなさい』ということで、もうテレビは見せないと言って、テレビに袋をかぶせて紐で縛っちゃったぐらいです。お父さんはゆったりした方で、怒鳴ったりしない。持田の性格は、お母さん譲りだと思いますね」

持田が高校一年の時、母・清子が急逝する。そして、母親の死は、メリノの経営に影を落とす結果になる。実は、会社経営を仕切っていたのは武雄ではなく、母の清子だったからだ。昭和三十年代から、メリノに羊毛の納品をしていた元商社マンの渡辺正一氏が、当時をこう語る。

「会社を切り盛りしていたのは奥さんでした。神田和泉町の頃から、奥さんが番頭さんを使って指示を出していた。ところが、その番頭さんが、ニッター(縫製工場)から無断で借金をしたのでクビにした。次の番頭さんが育つ前に、奥さんが亡くなってしまった。武雄さんは、人格的には素晴らしく、百貨店の仕入れの方からも信頼をされてましたが、残念ながら、あまり危機意識がなかった」

これにオイルショックや海外での工場投資などの負担が重なり、商品の在庫が増える一方、借り入れ金が十億円を超え、第一勧銀、日商岩井からの出向者を受け入れ、経営の建て直しをしていた。ところが、この頃、武雄は、銀座の高級クラブ「ラモール」の元マダムで、「マキシム・ド・パリ」をプロデュースした女性実業家の花田美奈子と再婚し、悠然と田園調布に住んでいたのだ。

そして、慶応大学経済学部に進学した持田は、ラグビー部の花形選手として活躍しながら、金持ちの慶応ボーイらしく、愛車のフェアレディZに乗り、お手伝いさんを雇って一人で松涛の自宅を独占する優雅な毎日を送り、卒業後、第一勧銀に就職する。

「お父さんの会社のメインバンクが第一勧銀だった関係と、ラグビー部の枠の両方で就職できたという感じだった。当時は家を継ぐ予定だったので、よくある『修業にしばらく預かってください』というものだったと思います」(前出・横山)

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ところが、入行四年目の昭和五十六年六月、メリノの借金返済のため、松涛の自宅ビルが人手に渡ることになった。しかも、自宅の売却をすすめたのが、第一勧銀だったという。

「すでに、軽井沢の別荘、厚木の倉庫を売却した。金利の減免はしてもらいましたが、倒産の危機というほどではありませんでした。銀行側の強い意向があったのと、最後は、武雄社長の〝取引先に迷惑をかけたくない〟との思いで、松涛の自宅を売却することに決めたのです。売却が決まった途端、昌典さんは、荷物をまとめて掃除も手伝わずに家を出て行かれました。自分が勤めている銀行が、自分の家を売り払い、父親の会社を廃業に追い込んだ事実に、耐えられなかったんでしょう」(メリノ元社員)

この頃、日比谷支店に勤務していた持田は、第一勧銀のラグビーの中心選手でもあったが、練習を早めに切り上げて英会話学校に通うようになる。仲間とゴルフに行っても、社内で英会話のテープを聞いていた。そして、弱かったラグビー部を社会人リーグの一部直前まで強化する一方、一年で7人程度しか合格しない、難関の社費留学試験も突破する。

「当時、行内では『持田の親父の会社は銀行に焦げ付きを発生させた』と陰口を叩かれていました。それだけに、彼には見返してやろうという気持ちが強かったでしょう。ラグビー部を創設した藤居寛常務(当時)=現帝国ホテル会長=からも評価されて、行内でも幹部候補生と目されるようになりました」(一勧の元同僚)

持田が、ペンシルベニア大ウォートン校への留学に旅立つ日、日比谷支店の上司や同僚が、成田空港まで見送りに行った。

「頑張ってこい」
「はい、頑張ります」

こんな会話を交わして、持田はMBA留学のため米国に向かった。しかし、持田は一勧に戻らなかった。留学先でGSへの転職を決めたのだ。社費留学の幹部候補生が外資に流出したことで、一勧には「寝返った」という反応が満ちた。わけても、持田を信頼し、結束していたラグビー部関係者からは、「持田は裏切り者だ」という怨嗟の声が挙がった。

メリノは一勧によって廃業に追い込まれたのか。それとも、一勧に巨額の焦げ付きを発生させたのか。今、真実を検証することは難しい。しかし、一勧の一部の人間が、持田を「裏切り者」と信じ、一方の持田は、一勧に自宅と家業を奪われたことに、怒りに似た感情を抱いたのだけは間違いないだろう・・・。

こうして、バブル絶頂期に、後に日本を席巻することになる一人のバンカーが、都銀から外資へと、戦いの場を移していった。

初出:「ハゲタカ外資の虚像と実像(前編)」『週刊新潮』2005年6月30日号


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