ゴールドマン・サックスの正体『文藝春秋』Part1


東京タワーすら睥睨して聳え立つ六本木ヒルズ---。

十一月、六本木ヒルズのシンボルである「森タワー」の四三階から四八階に、外資系投資銀行「ゴールドマン・サックス証券(以下GS)」の東京支店が入居した。最高層階のテナントスペースをすべて借り上げる「バンク借り」というもので、二階の受付も、六基あるエレベーターも、すべてGSの専用で、他の入居テナントであるヤフー、楽天、グッドウィルなどのベンチャー企業群より、文字通り数段上に存在している。

GSは、三井住友銀行の千五百億円の増資や、ダイエーグループのホテル買収、そして倒産したゴルフ場を次々に買い占めて西武グループを凌駕する日本最大のゴルフ場オーナーになるなど、不況に喘ぐ日本を席巻している。オフィス移転は、「ライジングサン・プロジェクト」と名づけられたもので、拡大を続けるGSの人員を支えるためのものだ。

東大生の人気企業ランキングでは常に上位に位置し、海外勤務やMBAを取得している日本の有能な銀行員たちは、ヘッドハンターを経由してGSに続々と入社する。GSのオフィスには、日本の富と知が集中しているようにみえる。

しかし、「勝ち組」として君臨している日本のGSは、今から十数年前のバブル期は、野村證券などが食い散らかしたオコボレを拾う「弱小外資」でしかなかった。

当時、まったく先の見えなかった外資系投資銀行に身を投じ、ウォールストリート最高の栄誉といわれる「ゴールドマン・サックスのパートナー(共同経営者)」の地位を獲得した四人の日本人金融マン、槇原純(45)、松本大(39)、山崎養世(45)、そして現社長の持田昌典(49)の半生を辿り、「ハゲタカ」の批判が渦巻くゴールドマン・サックスを問い直したい。

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一九八五年ニューヨーク---。

GSのヴァイス・プレジデントの槇原純は、ある日本人銀行員をインタビュー(面接)した。彼は第一勧業銀行の行員でペンシルベニア大学ウォートン校にMBA(経営学修士)留学をしていた。日本の金融機関から社費で留学した現役行員が、銀行に戻らず外資に転職するのは、日本がバブルに浮かれていた中では極めて異例だった。槇原が振り返る。

「この頃、東京勤務の日本人の採用を増やしていた時期です。中身は覚えてないですが、とにかく、物凄く頑張るという感じだった。普通は、いったん第一勧銀に戻ってカタをつけて来るんですが、彼はすぐに来ると。これは大変なことで、それぐらいやる気があると思った」

この時、槇原が面接をした相手が、後にゴールドマン・サックス証券の日本代表となる三十歳の持田昌典だった。

持田は、慶応の幼稚舎から慶応大学経済学部に入学したが、学生時代は副将としてラグビー部の活動に明け暮れ、大学四年間を通じて四十日ほどしか学校に行かず、当然、英語など一言も喋れなかった。学生時代にまったく勉強をしなかった持田は、一勧に入行後、会計、財務、英語を学び、西新宿支店、日比谷支店を経て、ウォートン校に派遣された。

持田は、留学先で「初めて真剣に勉強をした」という。英語でのビジネス会話もこなせるようになり、「自分でも色んなことが出来るのではないか」という思いが芽生え始める。しかし、最終的に都市銀行という安定を捨てて、あえて外資にいった理由を、持田はこう語る。

「私の生い立ちは、お金には比較的、小さいときから恵まれて育ったんです。ただし父の会社が自主廃業に追い込まれて全部なくして、社会人としてはゼロスタートだった。ところが私の昔からの友人は、資産もある方が多くて、そういうことを考えると、やっぱり一人でゼロからやっていくためには、自分の力でリスクを取ってもやらなきゃいけない、という気持ちがあった」

もっとも、この頃のGSの東京支店は、東証の正会員ですらなく、従業員も四七人しかいなかった。さらに、持田が入社した翌年には、住友銀行がゴールドマン・サックスに五億ドルの出資を決めたことで、「邦銀が勝者だ」というイメージが支配的だった。持田にも同じ思いがあった。

「せっかく日本の商業銀行から志を持って逃げてきたのに、なんか住友銀行が追いかけてきたような気になって、まあいろんなことを考えました。私にとっては、けっこうショックでした」

さらに翌年には、ニューヨークの証券市場は「ブラック・マンデー」の大暴落に見舞われたが、東京市場はビクともしなかった。日経平均株価は三万円を突破し、「東証上場の全株式でアメリカの全ての不動産を買える」などと囃し立てる、日本の証券会社の天下が続く中、持田が入ったGSは、まったく存在感を示す事が出来なかった・・・。

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舞台を八十年代のアメリカに戻す。

槇原純は、学生時代を商社マンの父ともに海外を転々とし、日本人でありながら、小学校の二年間をのぞいて学校教育のほとんどを海外で受けていた。もちろん英語は母国語のように話し、ハーバードビジネススクールを出た後も、日本の企業に就職することなど全く考えていなかった。彼は、サマーインターン(夏季研修)では、モルガン・スタンレーで働いた。モルガンからも入社の誘いがあったが、槇原はGSを選ぶ。

「今は違いますが、その頃のモルガンは、非常に紳士的というか、貴族意識が高いところだった。夏に仕事をしていて、ジャケットを脱いでたまたま机の後ろの壁のクギにハンガーでかけたら、オフィスマネージャーに『コートはクローゼットに入れてください』と言われたんです。その頃は〝ウォールストリートのティファニー〟と言われていた会社で、逆にGSは、どちらかというと、葉巻を吸いながら仕事をして、仕事が終わったら飲みにいこうかという感じでした」(槇原)

槇原は、持田がリスクをとって外資系を選んだのとは違う。彼は、ハーバード大からハーバードビジネススクールーを卒業し、八一年に二十三歳でGSに入社したエリートである。 コーポレートファイナンスを担当した牧原は、入社一年目から、投資銀行業務の最前線で働き始める。

「日本の会社と違って、どんどん責任を与えられる。入社一、二ヶ月目で、GSのパートナーから、『おまえ一人で行け』と突然いわれて、バンク・オブ・アメリカの転換社債発行のミーティングに行かされました。一人でサンフランシスコに行って会議に出席しても、ドキュメンツを見てもまったく分からない。『変な質問するな。何か分からないことがあったら電話しろ』と言われてたので、定期的に席を外して、『こういうことを言ってますが、どうですか?』と。そういうことが結構ありましたね」(槇原)

仕事が出来なければ即刻クビになるという米国投資銀行の中で、槇原は四年目でヴァイスプレジデント、そして九二年には三十四歳で念願のパートナーに就任する。アメリカ最大の投資ファンド「KKR」による、カリフォルニアのスーパーチェーン会社のLBO(相手先資産を担保にした買収)を手掛けたことが評価された。

「もちろんお金も魅力でしたが、当時のGSは、プライベートカンパニーで、秘密クラブ的なところがあった。中身が何も分からないんです。パートナーになって秘密クラブがどうなってるのか、会社の財務諸表も見せてもらえる。パートナーシップリストがあって、みんなの持分が出てるわけでよ。毎月のミーティングで各パートナーが業績を説明すると、色んな情報が流れてくるし、非常にワクワクしました」(槇原)

パートナーに就任した槇原は、日本に転勤させられる。東京には同じ年にパートナーになった持田がいた。そして、米国からの「落下傘部隊」として東京支店長に就任したロバート・カプランは、当時、約三十人だった日本の投資銀行チームの戦略を一変させる。少ない人数で日本の会社とコミットし、大きなリターンを得るには、大企業、そして海外でのビジネスを展開する企業を相手にしなければならない。

彼らは三~四十社の「ターゲットリスト」作り上げる。リストの筆頭には「NTT」の文字があった・・・。

初出:『文藝春秋』2004年1月号(文中敬称略)

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