新生銀行会長 八城政基は勝ったのか Part2 『文藝春秋』

日本のエッソ石油の成功を買われた八城は、昭和四十七年にエクソン本社のケン・ジェイミソン会長の特別補佐、エッソ石油社長、さらに、昭和五十四年にはアジア・太平洋地域を統括するエッソ・イースタンの副社長となって渡米する。エッソ・イースタンは、従業員約三万人、年間税引き後利益は約十億ドル。八城はイースタンのナンバーツーとして第二次オイルショックの最中、世界各国の原油の割り当てを決定する会議に参加する。さらにインドネシアの国営石油公社のプルタミナとの交渉や、タイのウドンでの原油開発の調査、パキスタンでの天然ガス利権の買収など、米石油メジャーの中心で活躍しはじめる。

しかし、エッソ・イースタンのトップの座を目の前にして、八城の前に「国籍」の壁が立ちはだかった。八城がエクソンの役員になれば、非米国籍の人間が米国のエネルギー戦略、ひいては国家機密へのアクセスが可能になる。そこでエクソンはグリーンカード(永住権)の取得を勧めたが、八城は拒否した。

「当時、日本の経営が世界一であるように言われるようになって、日本との関係が良くなかった。仮に僕がエッソ・イースタンの社長になっても、エクソンのボードメンバーに日本人を入れることには株主からの反対が予想された。そして決定的だったのは、僕がダウンストリーム(販売)だからです。本社のアップストリーム(開発)出身の人から見れば、『彼は売り子出身だ』という風になる。エクソンは、そもそも炭鉱や原油生産をやってきた会社ですからね」

永住権を取得しても、エクソンのボードメンバーになることは難しい。こう悟った八城は、六年半の米国生活に見切りをつけて帰国を選ぶ。実は、帰国を決意した最大の理由は、妻が長いアメリカ生活を嫌がったことだった。

「ワイフは、『早く日本に帰ろう』って年中帰国してた。一人でステーキ焼いて、マーティニ飲んで寝るっていうのもあんまり楽しい話じゃないからね。彼女がいるわけじゃないし(笑)。子供も、一人は結婚をして、一人はハーバード・ロウ・スクールに入って、全然家族に会うこともはない。ちょうどいい、帰ろう。そう思って帰ってきたんです」

帰国した八城は、日本のエッソ社長に復帰する。そして二年後には、「会長か相談役に残らないか」という誘いを断ってしまう。

「辞めてから、後任者の肩越しに会社を見るのは嫌だった。エッソが最初の利益を出して配当したのは、僕が社長になった昭和四九年です。それからずっと利益を出してます。日本のエッソの権益は、東燃の二五パーセントと、ゼネラル石油の五〇パーセントを足すと、年間四百億円ぐらい儲けていた。僕の心の中では、『自分がつくった会社』という意識がすごく強い。それをあとから来た--外国人なんだ、僕の後は。前も後もみんな外国人。一度も日本人は社長になってないんだよ。その外人--外人という言葉はよくないっていうけど--の肩越しに見るのは嫌だと・・・。つまり、自分の子供のような気がしてんですよ。代理店さんとの関係も色々あったけれど、みんなと親しかったし。だから、きれいさっぱりと辞めちゃったんです」

こうして、昭和六十三年十二月、三十年に渡って奮闘した石油ビジネスから、石油メジャーの「奥の院」に踏み入ることなく足を洗ってしまった。

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シティバンクの派遣で、ニューヨークのビジネススクールに通っていた奥村友紀子は、エッソの派遣で留学していた知人から「今度、うちの八城がそちらに行くそうですよ」と聞かされた。もっとも、奥村は「八城」という名前を知らなかったので、「そうなんですか」と返事をするだけで、特別の感慨は無かった。

同じ外資系といっても、金融と石油業界で横の繋がりがあるわけでもなく、また、当時の奥村は、シティバンクの日本代表の人事に関心を持たなければならない地位ではなかった。

エッソを退社した八城に声をかけたのは、シティバンクのジョン・リード会長だった。八城とリードは、パーティなどで何度か顔を合わせていた。アジアのシティバンクを統括する人物から、八城宛に届いたメッセージは、「リテール(個人客向け)ビジネスを拡大したい。是非シティに入ってくれないか」というものだった。

すでに八城は六十歳になっていたが、全く異なる金融界でも、さまざまな軋轢を生みながら、成果を上げていく。当時、シティバンクは「外銀」と言われ、日本人客からまったく無視され続けてきた。もっとも、店舗が少ないため、多くの個人客はシティバンクのATMを利用出来ないので、無視されるのも仕方なかった。八城は、都銀ATM網への参加を申し入れるが、延々と先延ばしされた挙句、参入を拒否される。そこで、二十四時間ATMサービスと郵貯との提携で顧客獲得を目指す。

「二十四時間の時は、まったく他行には話しにも行きませんでした。ところが、勝手にやられちゃ困るとか言われました。二十四時間ATMは、法的にはまったく問題はない。郵貯との提携は、アイディアを出して郵政省に話しを持っていったのは僕です。ところが、他行は国会議員へ陳情してまで反対した。それで自民党の委員会に呼ばれました。なぜ提携するんだっていうから、『これは国民共有の財産です。全国に二千行、二万五千台もあるのに、銀行が使えないというのはない』と。今でこそ、信用組合も含めて提携してますね。郵貯と提携した第一号は我々なんです」

平成三年、米国の不動産暴落などで経営危機に陥ったシティグループは、ジョン・リードを筆頭に、十五人の幹部を結集して「サバイパル作戦」を断行する。八城もメンバーに選ばれ、わずか二年間で黒字に復活する。

八城がシティの在日代表に就任してから四年後、ストラクチャード・ファイナンス部門のチームリーダーの一人になった奥村は、新規の金融商品について検討する社内コミッティー(委員会)で、八城と顔を合わせるようになった。

「コミッティーでは、事前に出席者全員にメモを回すのですが、メモの内容が整っていれば、八城さんは『メモを読めば内容は分かりますね。それでは、問題点を指摘するところから始めましょう』と、パッパッと進みます。ところが、ある人が、ちょっとロジカルじゃないメモを出してしまった時、八城さんはメモを手で持って、『誰かこれについて説明してください。私には全然わかりませんでした』と言って、一から説明しなければならないことがありました。そう言われても仕方がない内容のメモだったんです。つまり、キチンとやっていったかどうかで、全然、対応が違うのです」

奥村によると、八城は「規制が嫌いなのではなく、理に適わないことが嫌いだったという。

「コンプライアンスなどには、非常に厳しい方でしたが、ロジカルでない規制、たとえば『全銀協の申し合わせとしてこれはやめましょう』といったものは、非常に嫌っていらっしゃいました。また、二十四時間ATMや郵貯との提携などの新サービスについても、法律で規制されていれば役所に掛け合うでしょうし、禁止されてないのなら、なぜやらないのかという考え方をされる方だと思います」

シティバンクは、バブル崩壊で疲弊する邦銀を尻目に、八城が率いた八年間で経常利益を十倍に急拡大させることに成功した。

しかしシティには、八城でも解決できない問題が内在していた。実は、シティのプライベートバンク(個人富裕層への投資サービス)部門は、当初から、在日代表の配下から外されていたのだ。

「最終的に法律や規則に違反した場合、責任を取るのは僕です。そこで、ジョン・リードやニューヨークの弁護士に話して、コンプライアンスと法律問題については、プライベートバンクも部下に入れました。九五年には、当時のプライベートバンクが問題を起こし、何人かを解雇、転勤、ボーナスカットなどで処分し、大蔵省に報告しました。プライベートバンクとは、何回か揉めています。平成四年に天王洲に本社を移転した際、本社から来た人間数名が『行かない』と言うので、勝手なことを許したら埋まらないじゃないか』と言って、みんなを呼びつけて納得させました。ところが、プライベートバンクだけは最後まで丸の内に残ったのです。彼らだけは特別だという解釈が許されていた。これは、ジョン・リードの間違いだったと思います・・・」

八城が非常勤の会長に退いた後、シティはトラベラーズ・グループと合併した。合併後、主導権を握ろうとする両者は、内紛状態となった。日本でも互いのチームが取引の奪い合いを演じるようになった。そして、プライベートバンクでは八城の危惧が的中する。匿名口座を用いたマネーロンダリング、株価操縦資金の提供、説明不足のまま高齢者へのハイリスク金融商品の販売、客の預金の横領など、さながら「犯罪銀行」のようになったシティの在日支店は、昨年、金融庁からプライベートバンキング部門の免許を取り消された。

平成三年にシティを救った幹部十五人のうち十四人がすでに退任した。八城が築いたシティ在日支店の信頼は、地に堕ちてしまった。

(初出:『文藝春秋』2005年4月号)

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