日債銀「破綻判定リスト」の衝撃 Part2 『文藝春秋』

「昭和四十年代までは、実際に担保の不動産を鑑定部が全部見て回りました。ところが、昭和五十年代に入ると、鑑定部に回さないで営業担当者が評価できるようになったのです。営業の力が強くなって、バブル時代になると、金利分まで上乗せして貸すような評価になっていきました。どうしてそうなったのか。やはり勝田さんが営業の現場をまったく知らなかったからでしょう」(前出・日債銀の元幹部)

東北の政商こと小針歴ニの福島交通グループへの巨額融資や、政財界の黒幕・児玉誉士夫と関係を深めたり、竹下登、金丸信、安倍晋太郎といった大物代議士への献金など、日債銀が〝政治銘柄〟になっていくのも、この時期だったという。

さらに、勝田の右腕といわれ、バブル期に頭取、会長として実権を握っていた、日本興業銀行出身の頴川史郎が、日債銀の野放図な融資に拍車をかけた。

「倒産した千代田ファイナンス(後の日本トータルファイナンス)は、バブル期に二、三十億円の経常利益を出した。すると頴川さんは、『この会社を見習え』と行内にハッパをかけたのです」(日債銀の元幹部)

日債銀、「日本トータルファイナンス」「クラウン・リーシング」「日本信用ファイナンスサービス」の関連ノンバンク三社を通じて、住宅金融専門会社(住専)各社や、第一不動産グループ、秀和、イ・アイ・イグループ、千昌夫のアベインターナショナル、末野興産といった企業へのバブル融資にのめり込んだ。

平成四年五月、関連ノンバンクの金利減免を三菱銀行(当時)などに要請して、日債銀が危険水域に達していることが明るみに出る。翌年、ノンバンク処理のために政府から元国税庁長官の窪田弘が送りこまれて頭取に就任。さらに、平成九年には、日銀出身の東郷重興が頭取となる。

「今考えれば、彼らは側近を連れて日債銀に乗り込むべきでした。当時の日債銀は、営業出身者も常務どまりで、役員になるのは秘書室や人事部出身者ばかりでした。つまり、幹部行員は、勝田、頴川の腰ぎんちゃくが仕切っていた。すると、例えばノンバンクの実態を報告させようにも、窪田さんや東郷さんには、都合の良いこと以外、何も知らされなかったのです」(日債銀の元幹部)

多くの関係者は、二人の〝天下り頭取〟がトップに座ったことを、政府による「日債銀は潰さない」というメッセージだと受け止めた。少なくとも、当初はこの見込み通りにコトが運んだことは間違いない。

その象徴が、平成九年春の「奉加帳増資」である。日債銀を救うため、大蔵省が金融機関に支援を要請し、損失補填契約を結んで、銀行、生保、日銀などに総額二千九百億円の増資を実現させたのだ。

「日債銀が潰れたら、金融債が紙切れになって、地方の金融機関が甚大な痛手を受けます。信用不安、連鎖倒産も起こるでしょう。だから、まさか潰さない。国が助けてくれるだろうという甘えと期待はありました」(日債銀の元幹部)

ところが、九八年秋に金融再生法ができると環境が一転する。金融再生委員会が、〝世界一厳しい〟不良債権の査定基準を採用した結果、引当金の積み増しを求められた日債銀は、一気に債務超過に陥り、国有化への道を辿ることになる。

「これまで大蔵省公認の不良債権査定をしていたのに、急に基準を変えてしまったわけです。『再生委の査定はなんだ!』という怒りの声が行内で上がりました。市場に追われて潰れるのなら諦めがつきますが、今まで査定していた審判が、急に厳しい審判に変わって〝突然死〟を宣告されたようなものですから、行員は非常に悔しい思いをしました」(日債銀の現役幹部)

しかし行員たちの思いとは裏腹に、すでに物語の結末は見えていた。日債銀は、大蔵省の手を離れ、別の意味で〝政治案件〟になっていたからだ。

その後、経営責任の追及という名目で、窪田と東郷は、東京地検特捜部に証券取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)で逮捕・起訴され、無罪を訴えて公判中である。その蔭に隠れて、既に亡くなった勝田はもちろん、バブル期の実力者の頴川や、奉加帳増資を主導した山口公生元銀行局長と中井省元審議官らが刑事訴追されることはなかった。


(初出:『文藝春秋』2000年10月号)


日債銀「破綻判定リスト」の衝撃 Part1 『文藝春秋』
日債銀「破綻判定リスト」の衝撃 Part3 『文藝春秋』
日債銀「破綻判定リスト」の衝撃 Part4 『文藝春秋』
日債銀「破綻判定リスト」の衝撃 Part5 『文藝春秋』