日債銀「破綻判定リスト」の衝撃 Part1 『文藝春秋』

「日債銀の譲渡が終わり、〝三年間リスクを負わない大銀行〟が、新生銀行に続いて日本に二つ誕生したことになる。国民の税金で債権の劣化を保証され、おまけに貸し倒れ引当金まで国が面倒をみた。今後、続出するゼネコンの債権放棄でも、他の銀行が債権を買い取ってくれるのですから、小学校のドッチボールでボールが当たっても大丈夫な〝味噌っカス〟も同然です」(都市銀行の幹部行員)

この稿が掲載される時点で、かつて「政界の貯金箱」と呼ばれた「日本債券信用銀行」は、ソフトバンク傘下の「新生日債銀」に生まれ変わっている。平成十年十二月の国有化(特別公的管理)から、実に二十一ヶ月もの歳月を費やし、難産の末に出来あがったのは、内外のマスメディアから、「ソフトバンクの機関銀行」を危惧される代物だった。

そもそも、民間銀行が国有化されるという〝異常事態〟が、だらだらと一年半以上も続いたのは、金融再生委員会とソフトバンク連合との交渉が、二転三転したからに他ならない。

今年二月、優先交渉権を獲得したソフトバンク側が、「貸し倒れ引当金一千億円の増額を要求した」(再生委関係者)ため、四月末の交渉期限までに決着せず、事実上破談となった。ところが、この直後にソフトバンクの株価が乱高下すると、「ソフトバンク側が引当金増額を取り下げ」(同)て、急転直下、譲渡が決まったのだ。

しかし、八月一日の譲渡の一週間前になって、そごう問題を契機に、「瑕疵担保条項」への批判が起こり、再び事態が一変する。今度は政府側の判断で、一ヶ月間の譲渡延期を余儀なくされたのだ。もっとも、この八月一杯の延期は、単に無駄な時間を浪費したに過ぎなかった。

「自民党、特に亀井静香政調会長の意向は、『瑕疵担保を破棄して、それに代わる契約を結ぶ』というものでした。ところが、六月には譲歩したソフトバンク連合は強気でした。早々と、『瑕疵担保条項を削るなら、買収しない』というカードを切ってきた。すでに半年近くも日債銀譲渡が宙ぶらりんになっているので、これ以上の先延ばしは日債銀の資産劣化を招くだけです。そうなれば次の譲渡先を決めるのは不可能です」(全国紙・経済部デスク)

国会での民主党の追及も、「契約を白紙に戻せ」とまでは踏み込めなかった。それも当然のことで、仮に政治的な判断で日債銀を再び国有化したら、契約を一方的に破棄するような国から〝問題銀行〟を買収する企業は二度と現れない。そうなれば日債銀の「二次破綻」を招くことになる。

譲渡延期は茶番劇に終わった。

こうして日債銀は、悪名高い瑕疵担保条項とともに、約四兆三千億円もの公的資金を注ぎ込んだ名ばかりの〝健全銀行〟として粛々と生まれ変わろうとしている。

四兆円を超す公的資金で救済された銀行にも関わらず、日債銀は、割引金融債の「ワリシン」でも購入したことがない限り、馴染みの薄い銀行だろう。この銀行が、旧朝鮮銀行の残余資産を元手に、昭和三十二年に「日本不動産銀行」として設立された、大手銀行の中で最も若い銀行であることもあまり知られていない。

「すでに(長期信用銀行法に基づく)長信銀として、興銀、長銀がスタートしており、三番目の銀行はいらない、必要ないという声が強かったんです。そこで中小企業相手ならいいだろうということで、設立許可が出た。朝鮮銀行の流れを汲んでいるというより、植民地時代の朝鮮中央銀行の残党たちの働きかけで作れられた銀行でもあるのです。彼らの根回しがなければ、必要なしと言われた銀行を設立させることなど出来なかったでしょう」(日債銀の現役職幹部行員)

日債銀が、政治家への根回しの結果、「必要のない銀行」として設立されたというのは、象徴的な史実である。

かつての中央銀行を仕切っていた日債銀の幹部には、プライドの高い能吏が揃っていた。その中の一人に、後に二十年以上にわたって日債銀の実力者として君臨する勝田龍夫がいた。

勝田は、明治四十五年に現在の東京都渋谷区で生まれた。父は、大蔵次官から貴族院議員に勅撰され、大蔵大臣や文部大臣を歴任した勝田主計。また妻の父親は、西園寺公望の秘書官だった原田熊雄である。勝田は、いわば戦前の支配階級の閨閥に連なる人物だった。

京都帝国大学法学部を卒業した勝田は、朝鮮銀行に入行。その後、日本不動産銀行設立と同時に総務部長に就任し、翌年、取締役へ昇格。そして昭和四十四年に副頭取になってから、〝専横〟が始まる。

「勝田さんは、朝鮮銀行出身の優秀な方をどんどん外へ出してしまった。三代目頭取の湯藤さんの時に、彼は『副頭取先決』といって頭取を棚上げしました。勝田さんの我が侭を、初代頭取だった星野さんが押さえられなかったことが問題でした。勝田さんが頭取になると、御前会議があって、毎週午前中に参画メンバーが勝田邸に行くんです。その会議で銀行の方針が決まっていました。勝田邸は行員からの貢物で溢れ、支店長や取締役になっても、勝田邸の草刈に行ったという話しも聞いたことがあります」(日債銀の元幹部)

頭取となった勝田は、日債銀を〝個人銀行〟のように動かし始める。

「大蔵OBや金融業務を何も知らない人間を連れて来て取締役にしたり、昭和五十二年に〝日債銀〟へ社名変更する時も、行員の案で決めたことになってますが、行員には何も諮ってません。ある日突然決まったのです。日債銀の秘書室の人数は興銀より多く、六、七人が勝田さんに掛かりっ切りでした。これは、彼が名誉会長になってからも続きました。湯河原や湯本の別荘は銀行の資産なのに、勝田さんが私物化して、他の行員は使えない。そういう振る舞いに対して、腹立たしく思っていた人もいれば、イエスマンでやっていた人もいたのです」(前出・日債銀の元幹部)

こうした日債銀幹部たちは、異口同音に「日債銀が破綻した元凶は勝田」と証言する。そして本来、「必要の無い銀行」だったゆえに、日債銀はリスクの高い金融界の〝けものみち〟を歩まざるを得なかった。一流企業や基幹産業には、すでに大手銀行や興銀などがメインバンクとして入り込んでいる。日債銀は、当たり前のように不動産やノンバンクへの融資に傾斜していく。


(初出:『文藝春秋』2000年10月号)


日債銀「破綻判定リスト」の衝撃 Part2 『文藝春秋』
日債銀「破綻判定リスト」の衝撃 Part3 『文藝春秋』
日債銀「破綻判定リスト」の衝撃 Part4 『文藝春秋』
日債銀「破綻判定リスト」の衝撃 Part5 『文藝春秋』