新生銀行会長 八城政基は勝ったのか Part1 『文藝春秋』


平成十年九月。八城政基は、全日空のファーストクラス「1-A」シートに身を沈め、ニューヨークから成田に向かう機中の人となっていた。

八城は、社外重役をつとめるコンサルタント会社「アーサー・D・リトル」の取締役会に出席した帰路、東京に立ち寄り、そのまま「ロンドン・スクール・オブ・エコノミスト」の客員研究員として、孫のいるイギリスへ旅立つ予定だった。エッソ石油社長、シティバンク在日代表を歴任した八城だが、すでに「過去の経営者」となり、多くの日本人も彼の名前を忘れかけていた。

フライトも残り一時間となった時、ふいに八城の隣の「1-C」に座る白人男性が話しかけてきた。親子ほどに歳の離れたこの白人男性が、米国の投資ファンド「リップルウッド・ホールディングス」代表のティモシー・コリンズだった。二人がファーストクラスのシートで初対面の挨拶を交わしている時、高度三万五千フィートを隔てた地上の日本列島では、「日本長期信用銀行」の経営危機が表面化し、未曾有の金融危機が襲い掛かろうとしていた・・・。

この偶然の出会いがなければ、八城は、東大大学院を中退して得られなかった博士号を取得するため、ロンドンの学校に通っていたはずだ。藍綬褒章を授かり、ロンドンと東京都心の一等地に家を構え、名誉と財産、家族に恵まれた八城には、ビジネスマンとしてやり残した仕事などなかったはずである。

しかし、一年半後の平成十二年三月、八城は国有化後に売却された新生銀行(旧長銀)の社長に就任していた。そして、ビジネスの表舞台に復帰した彼を待ち受けていたのは、「ハゲタカ外資の手先」「国賊」「不況の戦犯」といった数々の罵詈雑言だった。

八城が陣頭指揮をとる新生銀行が軋轢を生んだのは、これまで防具と竹刀で剣道をしていた日本の金融界に、「真剣」で切り込んだからに他ならない。八城に対する誹謗中傷は、その「返り血」である。なぜ八城は真剣勝負に挑んだのか。彼の稀有なビジネス人生を辿りながら、新生銀行が「異端の金融機関」となった真相を探りたい。

   ■       ■

八城は、世界恐慌が起こった昭和四年二月十四日に、品川区大井で薬局を営む両親の三人兄弟の末っ子として生まれた。小学校卒業までは裕福な生活に恵まれていたが、十四歳の時に父親と姉が病死する。そして太平洋戦争の敗戦三日後には、十六歳で母親も亡くなり、三歳年上の兄と二人きりの孤児となってしまう。アルバイトと奨学金で三高、そして京都大学法学部を卒業。一年後、東大大学院に新設された社会科学研究科に進学し、国際関係論を専攻する。

社会科学研究科には、後に国連事務次長となる明石康や、元日銀理事で国有化後の日債銀社長に就任した直後に自殺した本間忠世の兄、本間長世(前成城学園長)がいた。しかし、京大出身の八城は、指導教授などの人脈がないため、東大に教職として残るのは難しい。しかも、すでに結婚し長女が生まれていたため、アルバイトと奨学金で支える生活も楽ではない。「学者になるには一つのことを掘り下げる探究心と、経済的な余裕が必要だ。自分のような移り気な人間には向いてない」と考えた八城は、人生の軌道修正を迫られていた。

そんな折、たまたま妻の知人の主催するパーティーで、米国の石油会社スタンダード・バキューム・オイルの営業担当の米国人にスカウトされた。同時に、アルバイト先の世界経済調査会の理事長、木内信胤からも誘われた。

「世界経済調査会からも、いい給料をもらってましたが、一生の生活は委ねられなかった。木内さんからは、『君はビジネスマンには向かない。どうせすぐ辞めるだろう』と言われて引き止められました。結局、一年後にスタンバックに行ったのは、ワイフが『親切に誘われてるのに、いつまでも断りつづけるのは失礼だ』と言うので、横浜の本社に挨拶に行くと、一番偉い人たちにも会わせてくれたのです。それで、生活も苦しく、まったく知らない世界でしたけど、行ってみようという気になったわけです」

昭和三十三年六月、八城は大学院の専門課程を中退して、スタンダード・バキューム・オイル日本支社に入社する。この時、八城は二十八歳の大学院生。当時の日本企業が中途半端な年齢、学歴の八城を雇うことは無かっただろう。八城は、日本に背を向けて外資を選んだのではなく、チャンスを与えてくれた外資系しか選択肢がなかったのだ。

当時の日本の石油産業は、七年前にGHQが石油行政権を日本政府に移譲し、ようやく戦後支配から解き放たれて一人立ちを始めたばかりだった。一方、八城が入社したスタンバック日本支社の従業員は約千八百人。親会社のスタンダードのルーツは、「石油王」ジョン・D・ロックフェラーが創設した石油会社である。一八七九年には米国の石油精製の九十パーセントを支配し、独占禁止命令で解体させられるが、その後もロックフェラー財閥が間接的に支配し続けていた。八城のキャリアは、図らずも米国の資本主義を象徴する企業グループでスタートすることになった。

入社して六ヵ月後、八城はニューヨーク本社に送られる。社費でハーバードビジネススクールに入学する予定が、一年で東京に舞い戻ってくる。スタンバック日本支社が、エッソ石油とモービル石油に分割されることになった。八城は、地域ごとに将来のエネルギー需要や経済成長率を調査し、両者に資料を提供する仕事を担った。そして社員の配分は、それぞれの幹部が指名することになった。コインを投げて優先権をとったのはエッソ。そして、エッソが一番に指名したのは、入社二年目の八城だった。

その後、八城は、三十五歳で取締役、三十七歳で代表取締役専務になる。スタンバック入社から数えてわずか九年目にして異例の出世をした八城には、二十歳以上も年上の部下が出来た。そして、営業担当専務になった八城は、石油販売店の改革に乗り出す。

「僕は、理屈でものを考えるほうで、代理店との間にいくつか問題があった。当時の販売店は、月末締めの翌三十日払いで商売していた。つまり、ガソリンを売った上で一ヶ月以上もお金を貸してる状態だった。代理店さんは、なかなか払わないお客さんのほうが、商売が長続きすると思っていた。そして、販売店に車を運転して現金で支払うお客さんを、『あれは一見客だ』と大事にしてなかった。最初は、それが間違ってると指摘しても、分かってもらえなかった」

販売店の中には、三十代の若い専務の八城の目の前で、「お前に商売が分かるか!」と言い捨てる人間もいた。そこで、早い支払いに「奨励金」を設けた。当時、市中金利が七パーセント台だったが、一〇パーセント以上の「奨励金」を支払うことで、販売店にインセンティブを与えたのだ。現金商売が定着し、個人顧客の獲得に成功する。

さらに、ガソリンスタンドの店頭に、「レギュラー○○円」「ハイオク××円」という表示を出した。ところが、石油業界からは猛反発を食らう。

「全国石油商業協同組合連合会の理事が七、八人来ました。『エッソに値段を出されると、それより安く売らざるを得ないから、やめてくれ』という主張です。『それは理屈に合わない。ガソリンを入れた後で値段を言うのは商業道徳に反する。日本もアメリカもない』と突っぱねてお終いでした。そのうち、周りも真似しはじめて、どこでも値段を出すようになりました。お客さんの立場を考えて、ちゃんと理屈が合っていれば、最後は勝つんですよ」

(初出:『文藝春秋』2005年4月号)

新生銀行会長 八城政基は勝ったのか Part2
新生銀行会長 八城政基は勝ったのか Part3
新生銀行会長 八城政基は勝ったのか Part4