「最後の切り札」福井日銀総裁の実力 Part2 『文藝春秋』

その後の福井は、大阪支店副支店長、総務局次長、人事局次長、調査統計局長を歴任する。「プリンス」として帝王学を叩き込まれ、三重野康から可愛がられた福井は、平成元年に理事に就任すると、三重野とともにバブル退治に乗り出す。同時に、「将来への布石」のため経済同友会の会員にもなる。

「三重野さんは、自分で音頭をとって産業界のトップと勉強会を開くことが好きでした。そういった席には、必ず福井さんも同席していた。日銀は、銀行界には顔は利くが、産業界との交流が少ない。いずれ総裁となる人は、朝食会や昼食会を通じて、大手企業のトップと直に話せる関係を作らなければならない。福井さんは、富士ゼロックスの小林陽太郎、トヨタの奥田碩、富士通の山本卓眞、新日鉄の今井敬といった財界人と友人関係を結ぶようになりました」(前出・日本銀行古参OB)

福井は、平成六年に副総裁となり、「玉座」を目の前にしていた。自らが委員となり、念願の日銀法の改正も実現した。あとは日銀総裁になって、「マーケット重視派」として最後の仕事にとりかかろうとしていた。ところが、平成十年三月十一日、接待汚職で吉沢保幸日銀営業局証券課長が逮捕されて、福井は辞任に追い込まれる。

この時、同期の南原は、日本輸出入銀行の副総裁としてコロンビアのカタルヘナで米州開発銀行の総会に出席していた。現地はCNNすら映らず、日本のニュースは入ってこなかった。帰国後、「なぜ、福井君を止めなかったんだ」と日銀の幹部に問い詰めたが、「仕方がなかった。(世間の批判に)抗し切れなかった・・・」という答えが返ってきただけだった。福井の辞任の裏には、「大蔵省が大臣と次官が辞任した以上、日銀生え抜きが責任をとれ」という官邸からの強い意向があったという。

福井は、生まれて初めて、地道な努力や頭脳では乗り切ることができない、「世論」や「政治」の荒波に飲み込まれてしまう。福井が座るはずだった日銀総裁の玉座には、日銀理事から日商岩井に転じた速水優がついた。そして、ここから始まる速水政権の五年間、日銀は迷走を始める。

速水総裁発足から一ヶ月余りの五月二日、鴨志田孝之理事が、自宅で首吊り自殺をする。鴨志田は、速水総裁が国会で日銀職員の給与に関する質疑で虚偽答弁したという疑いをもたれ、批判の矢面に立たされていた。日銀接待汚職や給与水増し疑惑などの内部監理担当者だった鴨志田は、「もう疲れた。限界です。お許し下さい」と書かれた遺書を残して命を絶った。

次々と生じる日銀のスキャンダルを収拾させる役割を担うには、民間が長かった速水には荷が重かった。財務省の幹部が証言する。

「速水さんがはじめてG7に出席した時、持論を三十分ほど展開して、他国のメンバーを辟易させました。米国側の人間が目配せして『早く話をやめさせろ』と訴えたほどです。これに懲りて、二回目意向は速水さんに発言の場を設けないようにした。グリーンスパン氏は、G7が開かれると日本の不良債権を心配しはじめる。側近が理由を尋ねると、『G7でハヤミの顔を見ると、こういう人間で大丈夫か』と不安になるんだと答えたそうです。米国の金融担当者が速水につけたあだ名は『ジョーク』。これは『冗談』の他に『笑い者』という意味があり、もちろん、後者の意味です」

さらに速水には、山口泰副総裁との間に「確執」があったとも伝えられた。日銀内部で浮き上がった速水は、親しい政治家に辞意すら漏らしていた。

しかし、速水の首を簡単に替えることは不可能だった。速水は、「福井君に任せたい」と思っていたようだが、ここで福井を総裁に据えたら、任期途中の二、三年だけのワンポイントリリーフになる。日銀生え抜きのプリンスを、数年で退任させるわけにはいかない。数々の負の遺産を残して、速水は任期を全うせざるを得なかった。

速水の任期が終わりを迎える頃、次期総裁候補を巡って、何人かの名前が挙がった。自ら手を上げた〝インフレターゲット論者〟の中原延之(東燃会長)をはじめ、新日鉄の今井敬会長、さらに山口副総裁の昇格という説も流れた。任命権者である小泉純一郎首相の胸のうちには、「民間人を起用したい」という思いがあったが、これには日銀OBなどから猛反発があった。

「今の日銀をコントロールするのは非常に難しい。金融界の出身者ならいざ知らず、学者や産業界のトップでは、現場が言う事を聞きません。それには、金融政策についての知識はもちろん、人望があって現場からの求心力を得られる人を選ばなければならない。それが可能なのは、福井さんを除いて他にいません。こればかりは損得勘定を超えて、速水時代の混乱を修復するには譲れない選択でした」(日銀OB)

人選に動いたのは、小泉首相の秘書官、飯島勲である。最終的に福田康夫官房長官がリストを作ったが、多くの日銀OBは、あらゆるルートを使って「福井がベストだ」と首相に伝えた。さらに財界からも応援団が加わったことで、小泉は「福井総裁」を任命した。福井は五年遅れて総裁となり、一方の速水は、公職から退き、会員となっている都内キリスト教団で伝道活動をする身となっている・・・。

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総裁になった福井は、イラク開戦と同時に資金供給を増やし、度重なる量的緩和によって「マイナス金利」政策を繰り返した。さらに、銀行保有株の買い取りも増やし、「マーケット重視派」の表看板を外して、速水時代の政策を継続している。しかし、両者の大きな違いは、速水が政府からの圧力の後で量的緩和に踏み切ったのに対して、福井は政府の方針を先読みして、政策を打ち出していることである。

福井政権となった日銀には、大蔵省から元大物事務次官の武藤敏郎が副総裁として送り込まれた。一部の報道では、霞ヶ関からの〝お目付け役〟である武藤が、福井を抑えて政策立案や議事を牛耳っているとも伝えられる。しかし、武藤に近い関係者は、この説を否定する。

「日銀という組織はまさに御殿女中だ。財務省はもっと男っぽく議論するのに、福井総裁が意見を述べると全て決まってしまい、議論が見当たらない。しかし、福井総裁の求心力の強さは異常だ・・・」

福井は、こうした求心力を背景に、「組織活性化プロジェクト」という日銀のリストラにも取り組み始めた。若手行員が言う。

「局の統廃合や職位の簡素化、年俸制の導入などによって、業務の効率化、士気高揚を目的としています。このプロジェクトを推進する理由の一つには、速水時代に、若い行員が何人も退職する事態が起きるなど、士気が下がっていたこともきっかけの一つです。実は組織改革の必要性は以前から行内で指摘されながら、どの総裁も実現できなかった」
 実は福井は、日銀の組織改革を、引責辞任の当時から計画していた。接待スキャンダルの際、福井に代わって副総裁に就任した藤原作弥(日立総合研究所社長)が振り返る。
「業務の引き継ぎのために福井さんと日銀本店で会った時、『これを進めて欲しい』と、数枚の用紙をもらいました。そこには、今やっている活性化プロジェクトの素案が書いてありました。福井さんは接待汚職の前から、日銀の組織改革に取り組もうとしていたのですが、少しタイミングが遅かったのです」

しかし、速水体制下では、効果的な組織改革は進まなかった。新日銀法のもとで予算や人事、支店の配置などを決める以上、外部の審議委員を含めた政策決定会合で決裁をとらなければらない。ところが、痛みを伴う改革を行うには、速水ではあまりにも求心力に欠けていた。さらに、彼には審議委員を説得することすらできなかった。

福井は、本来なら速水が五年前に終えているべき仕事に、ようやく手を付けなければならなかった。「一年目から総裁候補が決まっている」ような昇進システムを廃止し、成果報酬を導入しない限り、「マーケット重視」を訴えてもお題目に終わるだけだ。福井の理想を実現するには、今の日銀は、あまりにも旧態依然とした体質で、マーケット主導を打ち出すには時期尚早だった。

そして、速水時代にガタガタとなった政府との関係を修復することも福井の当面の目標だった。同時に、接待スキャンダルでメディアの恐さを痛いほど味わった福井は、新聞記者を味方をつけることにも怠りはなかった。日銀記者クラブのキャップがこういう。

「ヒラの理事の頃は、下手な質問をすると『そんなことも知らんのか』という態度が出ることもありましたが、今では懇切丁寧に教えてくれる。記者の辛辣な質問にも笑顔で答えるので、こちらも突っ込みづらい。会見でも、速水さんのように、用意された紙を読みながら失言をするようなタイプではなく、自分の言葉で的確に質疑応答をする」

現在の金融政策が、景気回復に効果を発揮しているかは分からない。しかし、ハッキリしているのは、福井がこのまま「政治迎合」を続けることは無いということだ。いずれ、だぶだぶに緩めた金利やマネーサプライを引き締める「出口政策」を目指すことになる。

三月末、就任後に初めて赤坂で開かれた記者クラブ幹部との懇親会では、福井の口から「量的緩和も好きでやっていくわけじゃないんだ・・・」と本音が漏れきた。

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日銀総裁の任期は五年。この間、政府は福井の首を切ることはできない。一年目の福井は、大阪商家の出身であるにもかかわらず「実より名」を取ったように見える。速水時代にガタガタになった政府との関係修復のために、これでもかと量的緩和を断行した。その結果、政府、メディア、アメリカからは高く評価されている。そして、彼に残された残りの時間は四年である。

同期の南原は、福井の一年間を、このように評価する。

「福井君は、本来は『市場派』だったかもしれない。だけど副総裁時代に、山一證券、北海道拓殖銀行の破綻でクレジットクランチ(信用不安)を経験して、学んだんでしょう。雇用が回復するまでは、短観が良くなっても緩めた印象を与えたのは、非常に素晴らしいと思いますね。まず、先手先手で政策をうったことが良かった。おそらく福井君も、政府の方針について言いたい事もあるだろう。でも何も言わない。喧嘩になるだけです。速水さんは、実際には政府と考え方がそれほど違ってないのに、そういう印象を与えてしまった」

一方、先輩の日銀OBの若月は、一年目の福井について、「運も実力のうちだとするなら、良くやっている」と、あえて辛口の評価を下す。

「ちょうど就任直後にイラク戦争が始まって、考えていた量的緩和をスピーディーに実行できた。一月の追加緩和は、日銀に近い人ほど批判的で、逆にアメリカでは評価が高い。福井君の現在の座標軸はデフレ克服にあるようです。おそらく為替のことも含めて総合判断をした結果でしょう。事務局は『速水時代と同じことをやっているのに・・』と考えているかも知れませんが、福井君は、速水路線を反面教師にして、メディアへのプレゼンテーションや、政府との関係をうまくこなしている。ただし、政策の良し悪しは、まだ評価は出来ません」

福井に寄せられている国際的な賞賛も、あるいは「前任者より優れている」という程度のものとも思えてくる。そして、日銀の独立性を強く掲げた速水が批難され、新日銀法のを作り上げた福井が、「政府に迎合」して拍手を送られているのは、なんとも皮肉である・・・。

     ※     ※

日本銀行の玉座には、これまで二十八人の男たちが座ってきた。

占領下の日本でインフレ抑制と産業振興を成し遂げ、GHQとも互角に渡り合い、八年以上も日銀に君臨し「法王」と呼ばれた一万田尚登。第二次オイルショックのインフレを封じ込め、内需拡大や規制緩和で日本経済の新時代を築いた「前川レポート」の前川春雄など、経済史に名を残す総裁も少なくない。

その一方、「十三年ぶりの生え抜き総裁」と期待された佐々木直は、ニクソン・ショックでハイパーインフレを招き、第一次オイルショックへの対応も後手後手に回り、「悲劇の総裁」「狂乱物価の戦犯」と言われて日銀を去った。また、バブル退治の立役者として「平成の鬼平」と持て囃された三重野康は、五年後には「平成不況の戦犯」という汚名を着せられて総裁室を後にした。佐々木と三重野の二人は、いずれも「政治」に翻弄されて、重要な政策判断に狂いが生じた。佐々木は、田中角栄首相の圧力で公定歩合の引き上げが遅れ、三重野も橋本龍太郎蔵相や金丸信副総裁の口先介入を許してしまった。

こうした過去を踏まえて自ら「日銀の独立性」を確立したはずの福井が、仮に政治の圧力に屈することがあれば、佐々木や三重野と同様に、世間は集中砲火を浴びせるだろう。今は、境界線を歩いているように見える。

今の福井は、単に「速水との比較」で高い評価を得ているに過ぎない。任期中に訪れるであろう「ゼロ金利解除」のタイミングを間違えれば、評価は急落する。しかし、日銀地下の書庫にも、ゼロ金利下での金融政策について教えてくれるテキストはない。そして、福井の日銀改革が失敗すれば、福井のライフワークだった「新日銀法」そのものが否定される。法王庁は、ふたたび政治や官僚に蹂躙されるだろう。

日本銀行は「法王庁」という神秘的なイメージゆえに、「日銀総裁は絶対に過ちをおかさない」「日銀総裁は完璧に仕事をして当然」と信じられてきた。しかしバブル崩壊後、かつての名総裁たちが築いた日銀の権威は、少しずつ翳り始めている。多くの日本人が信じていた「通貨の番人」は、実は打たれ弱いエリート集団だったのかもしれない。

福井は、窮地に陥った日銀を救い出すために、多くのOBや現役職員から選ばれた「最期の切り札」である。〝法王〟となった福井の金融政策が失敗に終われば、日銀の信用は再び地に堕ちるだろう。そして、中央銀行の権威が失墜することは、すなわち日本が「経済大国」の看板を捨てることを意味するのだ・・・。



(初出:『文藝春秋』2004年6月)

「最後の切り札」福井日銀総裁の実力 Part1


-追記-