「最後の切り札」福井日銀総裁の実力 Part1 『文藝春秋』




銀行の銀行として、あるいは金利や物価を操る通貨の番人として、その権力や神秘性ゆえに、「法王庁」と呼ばれる日本銀行の玉座に、かつて〝プリンス〟と呼ばれた男・福井俊彦が総裁に就任してから一年がたった。

接待汚職で副総裁からの引責辞任を余儀なくされ、「過去の人」になりかけたが、ゼロ金利政策という異常事態の中で復活を果たした。三重野康以来の「日銀生え抜き総裁」の誕生に、日銀関係者は福井の活躍に期待をした。

しかし、一年目を過ぎた今、その評価は二分している。

一月二十日、日銀は当座預金の残高目標を三十~三十五兆円に引き上げた。これは、総裁就任以来、実に四回目の引き上げで、二人の審議委員が反対票を投じる中、議長である福井の提案によって、採決が行われたものだ。

日銀内部では矢継ぎ早の緩和策に異論が出始めている。一人の理事が、総裁の〝暴走〟を食い止めるために直談判に及んだが、三十分足らずで説き伏せられる一幕すらあったという。そして、関係者からは、「政府がデフレ対策をするように圧力をかける前に先手を打ったと言えば聞こえはいいが、政府の方針に従っているだけじゃないのか」という批判も噴出している。

その一方、海外メディアはこぞって福井を絶賛している。英経済誌『エコノミスト』は、「世界で最も優れた中央銀行総裁」であるとし、米タイム誌も、「世界の百人」の一人として、福井が日本経済再生に貢献した人物だと、手放しで称揚する。

景気回復局面での量的緩和策という、これまでの日銀の教科書とはまったく逆の政策を打ち続ける福井とは、どのような人物なのか。そして、株価の回復や統計上の高成長とは裏腹に、依然として危機的な状態を脱することができない日本の金融システムを、どう舵をとって乗り切ろうとしているのか。

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昭和十年、福井は、大阪市で洋傘の輸出業を営む両親の長男として生まれた。父親は、もともと富田林市の農家の出身だが、大阪の傘屋に丁稚奉公にでて番頭になり、神戸の資産家の婿養子になった苦労人だという。

福井の父親のもとで、十五歳から丁稚奉公をしていた山川政男によると、「福井商店」は、アメリカや南米、東南アジア、ヨーロッパ、アフリカへも輸出して、戦前は業界トップだったという。戦前の店は空襲で焼けたが、昭和二十二年に駒川(東住吉)で商売を再開してからも、家業は順調だったという。

「ぼんち(福井総裁)は生まれた時から知ってます。奥さんはお嬢様育ちなので、家事はお手伝いさんがやって、私も子守りでぼんちを背負っておしっこをかけられたこともあります。勉強が好きな子供で、二階の子供部屋で机に向かっていた姿をよく見かけました。頭のよさはお父さん譲りで、顔はお母さんに似ていますね」(山川さん)

福井は、進学校の府立大手前高校に越境入学する。高校時代の友人の中野茂が、語る。

「福井君は高校の入学式の時に、新入生代表で挨拶をしていたので、入学試験がトップだったんでしょう。勉強は出来ました。英語の暗唱も、さっとこなしてました。女の子にも人気がありましたね。話をしてると、すぐにニコニコと笑顔になる。育ちがいいのかなあ、と思いました。家にも遊びに行きましたが、特別立派ではなかったけど、きれいな家で、クラシックのSPレコードを聴かせてもらいました。スポーツは特にやっていなかったと思います。家は裕福な方だったでしょうね。パーカーの万年筆をもっていて、うらやましく思いました。遠足などの学年行事ではカメラを手に、よく写真を撮っていました」

裕福な家庭に育った福井は、東京大学法学部公法学科に進学する。そこでもやはり、金銭に不自由することはなかった。東大時代、ハンドボール部の後輩の藤本強が言う。

「福井先輩は、手が小さかったので、ボールがすっぽ抜けて、投げようとした方向と反対にボールが飛んで、キーパーが虚をつかれてゴールとなることもありましたね。四年生の時はキャプテンを務めてます。当時は、試合に負けると四年生からビンタを受けるような根性論が通っていた時代でしたが、福井先輩は叱り飛ばしたり、罵声を浴びせることもなく、勝っても負けても温厚なタイプ。喜怒哀楽を表情に出さなかった。住まいも寮ではなく下宿でした。原文で欧米の小説を読んでいたのを覚えています」

当時の東大法学部の学生が、民間企業に行かず大蔵省や日銀を目指すのは、珍しくなかった。藤本さんによると、福井は十月の大雨が降っている中、日銀の面接を受け、学生服に長靴という格好で友人の前にあらわれて、「そんな格好で行ったのか?」と笑われたという。

しかし、何不自由なく順風満帆にエリートコースに組み込まれた福井だったが、最初から「日銀のプリンス」として育てられたわけではなかった。

「僕らが入る前年は十月十日まで就職試験を延ばしたので、成績のいい学生が他に行って人数が少なかったんです。それで我々の時は、『全優』じゃないのも入れたんですね。僕は野球部のキャプテンだし、福井君はハンドボールのキャプテンで、二人とも『全優』じゃなかった。おまけに僕は留年までしてる」

こう語るのは、福井と同期で、同じ東大法学部から日銀に入行した南原晃(元日銀理事、現電通顧問)である。

大蔵省、日銀、興銀などに入る東大法学部卒業生に「全優」が多い中で、福井の成績は平凡なものだった。首席で卒業し、同期で大蔵省に入った角谷正彦(元国税庁長官、現みずほ銀行監査役)とは比べ物にならなかったという。

しかし、大学の成績はトップではなかった「三十三年組」からは、その後の日銀の中枢を担う人材が輩出される。後に副総裁の椅子を争う福井、南原、丹治誠(元日銀理事、現イーバンク会長)の三人が理事になった他、丸磐根(現山陰合同銀行会長)、大島陽一などの優秀な人材が揃っていた。その煽りを受けて、前後の三十二年、三十四年入行組からは理事を輩出することができなかったほどである。

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日銀に入り支店勤務から本店に戻った福井が最初に配属されたのが総務部(現在の企画局)だった。ここで、金融制度調査会で検討するため、日銀法の改正について研究する仕事についた。この配属によって福井が日銀で歩むべき道が決定づけられる。

「日銀には、大きく分けて『営業畑』と『企画畑』という二種類の思想が混在してきました。営業は、窓口指導(市中銀行の貸出増加額規制)などを通じて銀行から直接情報を入手して貸し出しをコントロールしながら金融システムを安定化させる『現場派』で、企画は、米国型の金融自由化、マーケット重視の『理論派』で、福井さんは後者でした。福井さんは、日銀法の改正案に携わりましたが、結局、法改正は実現しなかった。政治家や大蔵省の監督権、人事権から完全に独立しなければ、自由な金融政策を実行することができない。福井さんにとって、『日銀法改正』がライフワークになったのです」(日銀の古参OB)

営業と企画が対立していたわけではないが、福井が「マーケット重視派」として育ったことは注目される。そして、日本は高度経済成長を迎え、円ドル変動相場への移行など、時代は福井が目指していた「金融自由化」へと突き進んでいった。

福井は日銀に入ってからも人知れず勉強をしていた。若月三喜雄(元日銀理事、現日本総合研究所シニアフェロー)が、こう言う。

「彼は若くして政策を担当するような総務局にいまして、彼の勉強ぶりは凄かった。これはあまり人には知られていないことですが、日銀の地下の書庫に行くと、彼が一人で勉強する姿を見ました。書庫には、昭和の大不況のころからの資料がある。金融危機や大型倒産、海外からの投機、昭和の恐慌の時のことが、今でも参考になるわけです。彼には、長期の展望があったのかもしれません」

昭和四十五年、福井は日銀パリ事務所へと赴任する。もっとも現地の職員は二人だけで、大した仕事はなかったらしい。しかし、福井が華の都を満喫している頃、父親の「福井商店」の経営状態が危なくっていた。当時を知る大阪の傘業者の渡辺清さんが語る。

「(戦後の福井商店は)しばらく商売は良かったんやが、次第に輸出がだめになった。時代の波に乗り遅れたんやな。内地向けの商売に変えたんやけど、うまく割り込めんかった。最後は、しょうもないとこに手形売りして、貸し倒れしたんや。福井商店は生地屋の担保にとられて、その後、わしが管財人から買った。福井のおっちゃん(父親)は遊び人の洒落もんだった。着流しでな、心斎橋あたりでよく見かけたわ」

パリから戻った福井は、総務部調査役、そして、花形ポストの総務部企画課長となる。この頃から、福井は「将来の日銀総裁候補」として名前が知れ渡り、「プリンス」と呼ばれるようになる。しかし、華々しい将来が約束される一方、高度経済成長の中、時代の変化に対応できなかった父親の商売が立ち行かなくなったのは皮肉である。

「おっちゃんが死んだんは昭和五十四~五十五年ころやったか。奥さんがおっちゃんの車イスを押している姿を見かけたな。地味な葬式やった。間口二間ぐらいしかない家でやろうとするから、『元は福井商店やから、ワシの店で葬式をやったらええ』と福井さん(現総裁)に言ったんや。でも福井さんは、『ここでええんです』と言って、家でやっておったわ。日銀からは2人ぐらいしか来なかったはずや。冷たいとこやな・・・」(前出・渡辺さん)

豊かな少年時代を支えた家業の呆気ない廃業は、福井にマーケットの恐ろしさ、時代に取り残されることの怖さを認識させるには充分すぎる出来事だったろう。

(初出:『文藝春秋』2004年6月)

「最後の切り札」福井日銀総裁の実力 Part2